• 投稿者:野々山 新  「歴史総合」2024年度前期中間試験

    野々山です。丁寧なご回答をいただき、ありがとうございます。 日常の授業について、教科書の問いと史資料を活用しながら展開していること、基本的なようで難しいことと拝察いたします。それは、教科書の問いや史資料がなかなか系統立ったものとして生徒たちが受け止めにくいのではないかと考えていることによります。おそらく先生は、適切に精選されたり、新たな問題点を指摘したりと、学びが深まるように調整されているのではないでしょうか。この教師の営為こそ、私としては意義深いものと考えております。従来型あるいは先進的な授業などと区分することはあまり生産的ではないですからね。 そして、この教師の営為も交えながら評価問題の妥当性を議論できると、より相互に学ぶことが多かろうと思います。 今回の評価問題では、授業を通して育みたい力を評価する上でどのように貢献あるいは課題を残したと考えられるでしょうか。
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    2025/02/05 at 10:41 am
  • 投稿者:慎治 大岡  原始・古代の「時代を通観する問い」を表現する

    はじめまして。私も日本史探究を日々授業しております。非常に勉強させていただける教材をありがとうございます。
    1つお伺いしたいのが、生徒たちが実際にどのような問いを立てたか、ということです。「古代への展望」というのは古代史学習への見通し(?)という風に私自身理解しているのですが、生徒たちがいかなる見通しを立てたのか、もしよろしければお聞きしたいです。よろしくお願いいたします。

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    2025/04/25 at 10:39 pm
    • 投稿者:福崎 泰規  原始・古代の「時代を通観する問い」を表現する

      大岡先生、この度はコメントありがとうございます。お返事遅くなり申し訳ありませんでした。
      今週に入って全クラスでの授業が実施でき、約110名の生徒が「時代を通観する問い」を表現しました。全体的な問いの傾向としては、以下の6パターンに分類されると捉えています。
      ①「天皇はどのようにして権力を握っていったのか」「天皇の権力はどのようにしてひろまったのか」「いつから『天皇』が生まれたのか」「誰が『天皇』という存在をつくり、皆がそれを認めたのか」などといった、古代天皇制に関する問い
      ②「支配制度はどのように形成されていったのか」「どのようにしてヤマト政権は権力を広げたのか」「天皇の権力はどのようにして日本各地へ広がったのか」「国家の形成はどうやって行われたのか」「比較的小さな『ムラ』の集団であった日本がどのように『国家』になり、国際交流を深めていったのか」などといった、日本列島が統一的に支配されるや古代国家「日本」が形成される過程に関する問い
      ③「なぜ中国の真似をしていたのか」「日本と大陸は、どうやって、どのように関わっていたのか」「なぜ唐の文化を見本としたのか、それによって人々にはどのような影響を受けたのか」「独自の文化があったのにもかかわらず中国や朝鮮半島と交流し、当の文化にこだわったのはなぜか」などといった、対外関係に関する問い
      ④「律令はどのような経緯によって制定されたのか」「律令国家を目指したのはなぜか」「律令制度や天皇制などをどのように全国に広め影響を与えていったのか」「日本を支配する人たちや律令などがどのようにして生まれてきたのか」「どのようにして国家の拡大、律令の徹底が行われたのか」などといった、律令制に着目して古代の特徴を捉えようとする問い
      ⑤「どのようにして支配階級や日本の国家、ヤマト政権は従来の日本の原始時代の文化と結びついて発生したのだろうか」といった、原始から古代にかけての変化や連続性に着目した問い
      ⑥「古代の“あるべき理想や理念”とはなにか」といった、プリントNo.4中の資料をもとに古代社会の特徴について考察しようとする問い

      また、その中でも②に関わるもので、「なぜ古代になって『日本』『天皇』という国全体でまとまる概念(支配体制)ができたのか」という問いがありました。古代の特徴として「国全体でまとまる」という認識が適切とは言い難い気もしますが、歴史総合で獲得した「国民国家」概念から派生した問いとして評価しています。そこからゆくゆくの学習過程で、古代国家と近代国家の相違に注目させる学びを仕掛けられると、古代の学習内容を現代に引き付けることもできるのではないかと思い、今後の展開に取り入れていきたいと思います。

      一方で、うまくいかなかった問いもありました。最初の1クラスでは、私自身のワークシートの設定や授業中の指示がうまくいかず、「これからの古代の学習への方向付け」という意識が飛んで原始社会の考察に留まってしまった問い(例:「原始社会には、規律や支配者がいたのだろうか」)もありました。ただし全体を見ると、古代社会全体の特徴に迫り、「古代とはどういう時代か」という大項目のねらいを達成するためのものとしての「時代を通観する問い」を表現できた生徒が大半であり、本単元のねらいは概ね達成できたのではないかと振り返っています。

      蛇足ですが、「時代を通観する問い」に対する仮説も様々なものが表現されましたが、今回は本校が所在する西新町遺跡から硯が出土したという新聞記事を使用したということもあり、文字の役割に注目して仮説を表現した生徒が多かったです。それを切り口に律令や木簡などに見られる文書行政の広がり、律令国家による正史の編纂、平安時代の文章経国思想などに注目する今後の学習展開も考えられると思いました。

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      2025/05/01 at 10:30 pm
      • 投稿者:慎治 大岡  原始・古代の「時代を通観する問い」を表現する

        ご返信ありがとうございました。お返事するのが遅くなって申し訳ありません。
        学習した単元や与えられた資料からの問い、歴史総合を踏まえた問いなど、それまでの学習を踏まえた問いが出されており非常に興味深いです。生徒から出た問いをもとに今後どのような授業が展開されるか楽しみにしております。

        私自身、近々「古代への展望」の授業をしようと思っております(授業数が少なくこの時期になってしまいました…)。先生のご実践を参考に授業を考えてみようと思います。素敵な教材と実践の共有ありがとうございました。

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        2025/05/09 at 11:11 pm
        • 投稿者:福崎 泰規  原始・古代の「時代を通観する問い」を表現する

          この授業の後、現在は大化の改新のあたりまで授業が進んでいます。古墳時代の学習が終わったタイミングで、そこまでの学習を経て仮説を書き換える学習を設けました。飛鳥時代・奈良時代・平安時代の末にもそれぞれこういった活動を設け、節目ごとの振り返りを通して最終的に「古代とはどういう時代か」を考えさせたいと思います。
          というのも、歴史総合では問いによって析出された生徒の関心に沿って主題を設定することが求められていますが、日本史探究では仮説に基づいて主題を設定することが、それぞれ指導要領上では規定されております。その点に注目すると、「いかに生徒の仮説を育てるか」が日本史探究の学習では重要なのではないかと思うのです。そのあたりの成果もまたまとめたいと思いますので、ぜひご意見いただけたらと思います。今後ともよろしくお願いします。

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          2025/05/10 at 7:18 pm
  • 投稿者:寺前 駿  教会の権威

    和歌山県立文書館の寺前です。
    中世ヨーロッパに関して専門外ですが、非常に興味深く読みました。特に、皇帝と教皇の関係性の部分は詳しくなかったので参考文献も含めて、勉強になりました。
    質問ですが、メッセージにある「単元を貫く問」、「MQ」の授業範囲は、それぞれどこになるのでしょうか。また、弁証法的アプローチを複数用いられていますが、それを用いるねらいはどういったものでしょうか。
    よろしくお願いします。

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    2025/04/28 at 5:01 pm
  • 投稿者:寺前 駿  なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?

    寺前です。稲垣先生の「ポピュリスティックなレリバンス論に対抗する実用主義的な歴史教育の可能性-「連累」・「歴史への真摯さ」を思考概念として活用する-」は、自らの授業理論などを見直す時にはいつも参考になっております。
    1点質問です。育成したい力が「戦後日本の「独立/平和/成長」という支配的なナラティヴが、実際には本土大衆が軍事リスクを沖縄に転嫁・集積し続けることによって可能になった虚構に過ぎないことを物語り直すことで、何も変わり得ていない事後従犯たる本土大衆としての私たち自身を歴史的現在の中に発見し、在沖縄米軍基地というポストコロニアルな支配の責任を自らに問うような、過去に連累する倫理的思考力。」に対して、MQに「なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?」との問いにした理由は何でしょうか。私の主観的な感想になりますが、育成したい力に対する正面からの問いではなく、他に何らかの意図があるような問いに感じられました。
    お答えいただきますと幸いです。

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    2025/04/28 at 5:03 pm
    • 投稿者:稲垣 翼  なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?

      寺前先生

      コメントをいただき、ありがとうございます。
      予め答えを用意しているわけではありませんので、こうしてお答えしながら/書きながら考えていきたいと思います。

      ❶まず、一番肝心なことなのですが(そして質問に質問で返す失礼をお許しください)、寺前先生が「育成したい力に対する正面からの問いではない」と感じられたのは、具体的にどのような点についてなのでしょうか。ここが明確になると、授業者である私の死角がより鮮明になると思います。現時点では、目標論に対して「正面からの問いではない」とは私はまだ思えておりません(レトリカルな問いなので「直球ではない」かもしれませんが、目標論に対して問いも資料もかなりストレートなものを投げているつもりです)。

      授業者である私自身が史資料の解釈を饒舌かつ一方的に語ってしまうことには抵抗がありますので、できれば寺前先生が「正面からの問いではない」と感じられた所以をある程度言語化していただき、必要があれば私がその隙間に言葉を埋めていきたいと考えております。

      ❷また、前提として、本実践は「私たちは、暴力・差別・残虐行為などの過去の不正義に 対して責任を引き受けなければならないのだろうか?」(https://kodai-kyozai2.org/unit/post-0312/)への導入という位置づけで作成した授業ですので、本実践のみで目標の達成を目指しているものではありません。

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      2025/04/28 at 7:27 pm
      • 投稿者:寺前 駿  なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?

        すみません、改めて書き直します。

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        2025/04/29 at 8:28 pm
        • 投稿者:寺前 駿  なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?

          ご返信ありがとうございます。

          私が記憶違いしている点が多くあったので、書き直しています。

          まず、「正面からの問い」との表現を曖昧に使っていたと思います。その点反省しています。

          私が意図した「正面からの問いではない」は、育成したい力以外のことも、MQは求めていると私の主観では感じたためです。そのため、「正面からだけではない問い」と表現した方が良かったのかなと思います。

          エキスパート資料は、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約に対する三者の見え方を記していると私は解釈しました。

          具体的には

          ♧アメリカの視点で、冷戦下において日本を西側陣営に組み入れたい思惑から独立を急いだこと

          ♡日本(本土)の視点で、単独講和に踏み切り、「寛大な講和」や日米安保を締結することで高度経済成長を享受できたこと

          ♤は沖縄の視点で、1950年代沖縄が米軍基地と隣り合わせの状況にさせられ、日米からは無視されたこと

          を生徒に読み取らせたいと私は捉えました。

          それらを読み取った生徒たちがジグソー活動で取り組むと、三者のサンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約に対する見え方の違いを議論することで、他者の視点を学んだ上で、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約が締結された4月28日を「私たち」はどのように記憶するべきかと考えることが、本教材だと私は捉えました。

          MQというより、文章中の「「私たち」はこの日をどのような日として記憶するべきなのでしょうか」との記述が、育成したい力以外のことも求めているように私は感じました。

          これは、授業を学んだ生徒たちが、今後様々な場面で他者に対して「私たち」は4月28日をいかに記憶するべきかを働きかけて、「私たち」の4月28日に対する捉え方を見直してほしいとの意図まで含まれるように私は捉えました。

          以上が、本教材に対する私の解釈です。誤解している点もあるかと思いますので、ご指摘いただければ幸いです。

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          2025/04/29 at 9:02 pm
          • 投稿者:稲垣 翼  なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?

            寺前先生

            丁寧にご説明いただき、ありがとうございます。
            基本的に先生の読み取りは、著作者の意図を汲んでくださっており、逆に言えば私から特に申し上げることはございません。

            ただ、敢えて私から申し上げるべきことがあるとすれば、この授業で切っ先を向けている/向けられているのは「本土大衆たる私たち」であるという点です。先生が♠資料について言及された「1950年代沖縄が米軍基地と隣り合わせの状況にさせられ、日米からは無視されたこと」という沖縄を主語とした受動態の(欺瞞的な)ナラティヴをこそ問い質すことこそが、次に引き続く「私たちは、暴力・差別・残虐行為などの過去の不正義に 対して責任を引き受けなければならないのだろうか?」と併せて目標論の基盤となっています。私が吉見俊哉『親米と反米』を引用し、「記憶の消去」を問題にしているのは、記憶を消去することでのみ存立し得てきた「私たち」なるものが、実は構造的不正義の内部に埋め込まれた当事者なのだということに直面することからしか、何も始められないと私が考えているからです。

            先生の中で引っかかりを生んだ「「私たち」はこの日をどのような日として記憶するべきなのでしょうか」というフレーズこそが、むしろ私が最も「育成したい力」=「何も変わり得ていない事後従犯たる本土大衆としての私たち自身を歴史的現在の中に発見し、在沖縄米軍基地というポストコロニアルな支配の責任を自らに問うような、過去に連累する倫理的思考力」の内実をストレートに表現したものだと考えております。

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            2025/04/29 at 9:39 pm
          • 投稿者:寺前 駿  なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?

            稲垣先生

            育成したい力と「「私たち」はこの日をどのような日として記憶するべきなのでしょうか」のつながりを説明していただきありがとうございます。
            私自身が当事者という認識が出来ていないということを突きつけられて、まだ私が理解できていないところが多くあり、考えなければならないと思いました。

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            2025/04/29 at 10:59 pm
      • 投稿者:徳原 拓哉  なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?

        横からすみません。神奈川県立横浜国際高等学校、徳原です。

        記念碑と記憶、顕彰と顕彰されざるもの、という点から考えた時に、稲垣先生の問いは、「過去の引き受け」という点において非常に鋭角にそれを問うものに思えます。
        自分がインスピレーションを受けたものだと、「顕彰と顕彰されざるもの」に関しては津田博司さんの一連のオーストラリアにおける事例検討の論考が非常に良かったのですが、「実際には本土大衆が軍事リスクを沖縄に転嫁・集積し続けることによって可能になった虚構に過ぎないことを物語り直す」という問題意識は、支配的なナラティヴが、何を「顕彰しない」ことによって何を引き受けることを拒否しているのか(なかったこと”かのように”しているのか)という構造的不可視化という暴力を問うものに思っていました。このあたりは、稲垣先生が高大研の教材共有サイトに投稿をしていらっしゃる一連のご実践を貫いて読み取れるものであり、私個人は、そこに稲垣先生の立脚点がある(稲垣先生のご実践は、どれも授業者がどこに立ち、何を引き受けているのかがよく伝わってくるものが多いですね。)ように思っていました。
        話が横にそれましたが、そう(この教材の問題意識も、その一連の稲垣先生の立脚点の中に置き、”何を「顕彰しない」ことによって何を引き受けることを拒否しているのか(なかったこと”かのように”しているのか)という構造的不可視化という暴力を問うもの”と)考えた時に「なぜ日本には「独立記念日」が存在しないのだろうか?」という問いは、その「存在しない」という透明性が逆説的に浮き彫りにする巨大な存在を問うものに思えます。

        また話はずれますが、例えばメモリー・ペタゴジー研究において重要な研究を出している山名淳は、「不存在」の非常に重要な点を指摘していて、震災被害者らの聞き取り調査をしていると、常に”「私より辛い思いをした人がいるから」と沈黙する人たちがいる、そしてその「私より辛い思いをした人」を辿っていくと、そこには最終的に「死者」という巨大な空白=沈黙=存在が出現することを述べています。ここにおいて、透明であること、沈黙する/させられることがどれだけ巨大で雄弁な存在であるのか、ということはよくわかります。
        横からの目ですが、稲垣先生の問いは、そうした不存在の存在性を問うものに思えます。

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        2025/04/28 at 9:17 pm
  • 投稿者:寺前 駿  グローバル化と移民 ~グローバル化が進む世界の中で、女性の解放のためにヒジャブを禁止するフランスはどの程度正しい?

    寺前です。
    個人の自由とはどこまで適用されるのか、私自身は個人の自由は最大限尊重されるべきだと考えつつ、自身の価値観の時代性に悩まされながら、とても興味深く読みました。
    1点質問です。本授業を実施されたときには、フランス政府側の論理として用いられる「ライシテ」に関する説明はどの程度されましたでしょうか。
    よろしくお願いします。

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    2025/04/28 at 5:04 pm
  • 投稿者:寺前 駿  歴史総合におけるジェンダー視点からの問いの一覧(案):A歴史の扉、B近代化と私たち

    寺前です。ジェンダー視点からの問いの一覧、非常に参考になりました。
    私は様々な属性がありますが、女性ではなく男性です。そのため、社会から女性とみられている人の経験や感情を、当事者として受け止める機会がありません。一方で、歴史を学ぶときには様々な人にとっての「身近さ」が大事だとも考えています。
    女性とは異なる属性を持つ他者である私が、女性の視点からの問いをたてるときには、「身近さ」が「あなたの気持ちはわかるよ」といった他者を我が物にするかのような暴力性を帯びていないかと恐れをもっています。また、私の不用意な発言によって他者を傷つけていないだろうかとも恐れています。一方で、あなたのことが完全にわからないとしても、わかろうとすることが大事だとも思います。
    そこで質問ですが、川島先生は、川島先生からみて異なる属性を持つ人について授業を行う際に、気をつけていることなどはありますでしょうか。
    よろしくお願いします。

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    2025/04/28 at 5:05 pm
  • 投稿者:寺前 駿  2024年度「世界史探究」定期考査

    寺前です。これまで様々な場で報告されていた高大連携共同事業のテスト問題があり、評価のあり方を知ることができて参考になりました。
    質問ですが、採点基準のところで「自らの問題意識を反映できている。」とありますが、これはどういったものを想定されているのでしょうか。また、これは正答が多様なものとなると思いますがどの程度、点数を振り分けながら採点しているのでしょうか。
    よろしくお願いします。

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    2025/04/28 at 5:05 pm
    • 投稿者:壮太 丸小野  2024年度「世界史探究」定期考査

      寺前先生、メッセージありがとうございます。日々の授業における歴史実践を評価できる定期考査を目指しています。ご質問の「自らの問題意識を反映できている」について以下のようにご回答させていただきます。「自らの問題意識を反映できている」は生徒の歴史実践に関するオリジナリティを評価する観点になります。すなわち、「正答」が多様になります。最後の25点の条件が「自らの問題意識を反映できている」になります。その前提20点までとして複数の歴史資料の使い方等のルーブリック評価(25,20,15,10,5,0点)を設定しています。上記は高校における定期考査ですが、大学の定期考査が参考になりそうです。どうぞよろしくお願いいたします。

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      2025/04/28 at 9:53 pm
      • 投稿者:寺前 駿  2024年度「世界史探究」定期考査

        ご返信ありがとうございます。自らの問題意識を反映させただけの回答では、5点は入らないということがとても興味深く思いました。私の経験として、歴史のでの学びを踏まえずに、自らの考えを記す生徒の評価をどうするべきか悩んでいたことがあったので、とても参考になりました。この姿勢が、丸小野先生の歴史教育観が反映されているように思い、その点でも「日々の授業における歴史実践を評価できる定期考査」の形になっていると思いました。

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        2025/04/29 at 7:10 pm
        • 投稿者:壮太 丸小野  2024年度「世界史探究」定期考査

          寺前先生、お返事ありがとうございました。「歴史のでの学びを踏まえずに、自らの考えを記す生徒の評価」は私の課題でもあります。寺前先生との対話の中で私自身の歴史教育観も見えてきました。改めまして感謝申し上げます。

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          2025/04/29 at 8:10 pm
        • 投稿者:徳原 拓哉  2024年度「世界史探究」定期考査

          寺前先生の議論を受けて、僕も3点質問していいでしょうか。

          一つに、この考査問題は、日常授業の延長の中としてどのように位置づいていますか?
          そして二つに、生徒と問題や評価の視点について、どのように合意形成を図っていますか?
          最後に、評価を返却した先で、生徒は教員に対してどのようなフィードバックをくれましたか?

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          2025/04/29 at 7:19 pm
          • 投稿者:壮太 丸小野  2024年度「世界史探究」定期考査

            徳原先生、ご質問ありがとうございます。1、定期考査は生徒の自己調整学習の場かつ日々の授業のまとめと位置づけています。その他、定期考査以外にもレポート課題、プレゼンテーション、パフォーマンス課題など多様なタスクを課しています。そこで、生徒には定期考査を通して日々の授業、レポート課題、プレゼンテーション、パフォーマンス課題を踏まえた自らの歴史実践をまとめる機会として活用していただきたいと考えています。2、生徒のとの合意形成は丁寧に行っています。はじめに、定期考査の25~50%はルーブリック評価を含めて事前予告問題です。一部は引用する資料のみの予告です。次に、定期考査の採点ですが、約5回の採点を経て、採点基準/ルーブリック評価を作成します。最後に、定期考査の返却時ですが、一人ずつ「点数」の根拠を説明する簡単な個人面談を行います。ちなみに、定期考査の返却には個人面談と全体レスポンスを含めて約1週間かかります。3、生徒の反応ですが、以下のようなものがありました。生徒A「世界史は自分の言葉で説明することや歴史と結びつけることが楽しかった。」、生徒B「様々な探究活動、発表、グループワークなど、授業スタイルが豊富で、とても楽しく授業を受けられた。定期考査でも色々な力が身についたと思う。」、生徒C「世界史だけ、定期考査のスタイルを変えるべきだと思う。力にはなるが難易度が高い。」。引き続き、生徒とともによりより定期考査を探究できればと思います。よろしくお願いいたします。

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            2025/04/29 at 8:35 pm
  • 投稿者:寺前 駿  チョウのように書き、レヴィ=ストロースのように推敲せよ!IBDP歴史エセー執筆小ハンドブック

    寺前です。生徒向けの教材としても、私自身が文章を執筆する際の参考にもなりました。

    1点質問があります。執筆用ハンドブックでレヴィ=ストロースのこの文章の引用をされた理由を教えてください。意図はなんとなくわかる気がするのですが、上手く言葉に表現できないため質問しました。
    私の感覚的な表現になりますが、このハンドブックの全体としては、いわゆる実用的な?文章の書き方が記されていると私は捉えました。一方、レヴィ=ストロースの引用は、比喩表現が多く用いられており、読み手の情意面に働きかけているような印象を受けました。そこに何か両面性があるような気がして、違和感をおぼえたため、気になりました。

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    2025/04/28 at 5:06 pm
    • 投稿者:徳原 拓哉  チョウのように書き、レヴィ=ストロースのように推敲せよ!IBDP歴史エセー執筆小ハンドブック

      徳原です。コメントをありがとうございます。
      レヴィ=ストロースの引用については、僕自身が「書く」ということの本質だと考えているためです。
      このハンドブックは、IBバカロレアのエッセイ執筆に最適化しているわけですが、的確に読み解かれている通り、それはバカロレア(ないし渡辺雅子のいうアメリカ的論理思考)に最適化されています。
      阿部幸大さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社, 2024)でもそうですが、あるエッセーや論文執筆の思考体系は、ある言語文化世界に規定されていることを踏まえて読む必要があります。特にあの本を松沢裕作さんの『歴史学はこう考える』と比較しながら読むとわかりやすいですが、これら「アカデミックライティング」とされる「書くこと」の論理様式・思考様式が、必ずしも全てではない。
      それが歴史学や歴史の執筆、思考様式と全く重なるわけではないと考えていますし、重ならないからどちらが良い・悪い、という話でもないと考えています。松沢さんの、歴史の場合は素材を素材のままごろっと提示しちゃうこともありますよね、というところがまさしく、という感じですね。
      諸々の執筆ハンドブックやエッセーの書き方の本などを読むと、あたかも論理的思考なるものは論理統御のもとで目的に最適されて記述できるように書かれていることが多いのですが、僕自身はむしろ、レヴィ=ストロースのように、思考の奔流をそのままに書き出して、その中から彫刻をいだすように削り出していく思考のあり方に書くことの重みを見出しています。本書では、バカロレアの求める思考様式に一定の適用を見せつつ、レヴィ=ストロースの文章によってそれらを書き手の姿勢の部分において相対・対峙することを目指して執筆しました。
      生徒に渡したver.には、実際の僕の原稿の推敲の様子(つまり膨大な赤入れと修正の繰り返しの様子)を入れて、「消すこと」がいかに思考を促すのか、について考察するワーキングのページを入れています。

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      2025/04/28 at 5:21 pm
      • 投稿者:寺前 駿  チョウのように書き、レヴィ=ストロースのように推敲せよ!IBDP歴史エセー執筆小ハンドブック

        ご返信ありがとうございます。私が持った違和感は、思考体系の違いにあったということなのかと捉えました。私も文章を書くときには、「思考の奔流をそのままに書き出して、その中から彫刻をいだすように削り出していく思考のあり方に書く」に近い方法をとっています。ただ、これは消極的な理由でして、私は「頭」の中で流れているもの(思考)を書き留めないとすぐに記憶の彼方へと飛んでしまうからです。(だから対話による議論は苦手です。)そのため、初めに私の論理的でないものも含めて思考を筆写して、そこから、他者に誤解されずに伝わるように文章をコラージュしているという感覚です。この私のコラージュの感覚が、彫刻との違いがあるようにも感じて興味深く思いました。

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        2025/04/29 at 6:55 pm
        • 投稿者:徳原 拓哉  チョウのように書き、レヴィ=ストロースのように推敲せよ!IBDP歴史エセー執筆小ハンドブック

          ところで最初の質問にも感じたのですが、「実用的」またここでいう「論理的でない」は何を指すのでしょうか。

          渡辺の議論を読むとわかる通り、あの本は「論理的」とされる思考様式自体がある文化体系に依拠していることを述べている:つまり例えば特定の思考体系のみが「論理的」とされることに対して慎重になることができると論じていると考えています。僕がレヴィ=ストロースを置くのは、それが論理(とされるもの)の本質を捉えているためだと考えるからなのですが、先生のおっしゃるところでは、「思考の奔流」と「論理」は別のものとして整理されているように見えます。先生はどこに立脚して議論をなさっているのですか。

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          2025/04/29 at 7:09 pm
          • 投稿者:寺前 駿  チョウのように書き、レヴィ=ストロースのように推敲せよ!IBDP歴史エセー執筆小ハンドブック

            渡辺さんの論理的思考について、理解せずに文章を書いていました。

            「実用的」は、課題に対して役に立つという意味で記しています。今そのように考えれば、レヴィ=ストロースの引用も「実用的」だったと思います。

            「論理的でないもの」は、私の「頭」の中で流れているもの(これを私は思考だと考えていました。)を書き起こしたものともののつながりの意味が、私が想像する他者に対して、異なって伝わってしまうと予想する順序になっているものというつもりで記しています。

            「私が想像する他者」がどういった文化体系に依拠しているのかが、大事なのだと思いますが、私は渡辺さんの論理的思考について理解できていないので、明言できません。たぶん、私は他者に伝わりやすいことを意識して自らの結論から記して文章を書くことが多いため、そういったものを私は論理的だと考えているのかもしれません。

            言葉の定義を理解しないままに文章を書くことに慎重にならなければならないことを理解しました。私の文章の曖昧さを最大限に汲んでいただき、ありがとうございます。

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            2025/04/29 at 10:29 pm
      • 投稿者:徳原 拓哉  チョウのように書き、レヴィ=ストロースのように推敲せよ!IBDP歴史エセー執筆小ハンドブック

        【追記】ですから、このハンドブックも上述の点を引き算しながらみる必要があるかと思います。

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        2025/04/28 at 5:40 pm
  • 投稿者:寺前 駿  夷酋列像はなぜフランスで発見されたか ー仮説を立てる力を育成するためにー

    和歌山県立文書館の寺前と申します。高大研の大会での講演とても面白く聞いていました。私は現在アーカイブズ機関に所属していることもあり、史料の来歴を探る授業を出前授業等で私もしてみたいと思っていたので、本教材も興味深く読みました。
    1点質問です。高大研会報13号へ掲載されています渡邉先生の論文には、世界史探究と日本史探究では、世界史探究の「仮説」という言葉の使用回数が少ないと記されていました。それでも渡邉先生が、あえて世界史探究において「仮説力」鍛えることを授業のねらいにおくことの理由を教えてください。
    よろしくお願いします。

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    2025/04/28 at 5:07 pm
    • 投稿者:渡邉大輔  夷酋列像はなぜフランスで発見されたか ー仮説を立てる力を育成するためにー

      寺前さま

      先生の質問のおかげで、私自身おぼろげだった事柄について自分なりに整理し直すことができました。本当にありがとうございました!いずれ是非対面でお話したいなと思います。よろしくお願いします。

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      2025/04/29 at 9:13 pm
    • 投稿者:渡邉大輔  夷酋列像はなぜフランスで発見されたか ー仮説を立てる力を育成するためにー

      寺前駿さま

       ご質問ありがとうございます。
       ご質問に対する回答になりますが、マルク=ブロックの言葉を借りるならば、「いかなる史料も、それに問いかけるすべを知らなければ何も語ってはくれない」からです。
       私は、歴史を探究/研究する際には二種類の問いがあると考えております。一つはテーマに基づいて研究するための問いであり、二つ目は問いに対する仮説としての問いになります。仮説としての問いがあるからこそ、検証するためにどのような史料が必要なのか考えることができますし、史料は語ってくれると思います(レンズの解像度が上がる感じです)。そしてそのことによって、史料の事実立脚性に基づきながら、歴史は論理整合的に紡がれる、と考えます。すなわち、歴史を論理整合的に紡ぐ力を鍛える場として、仮説〜史料収集〜検証というプロセスが一つの最適な場になるということです(そのうち仮説〜資料収集の史料を考えるまでを今回の授業としました)。
       例を出すと、「近代化と私たち」において、「フランスの公初等教育」をテーマに、「フランスの公初等教育の進展はどのようにしてもたらされたのだろうか」という問いを立てたときに、「国家(立法とそれを浸透させるための行政(教育行政含む)がイニシアティブを握っていたのではないか」という仮説を立てたならば、検証するための史料は当時の立法や王令、通達や議会や行政の記録などになるでしょうし、「地域民衆は受動的に高初等教育を受け入れるだけの存在だったのではなく、選択・翻訳しながら受容(非需要)していたのではないか」という仮説を立てたならば、視学官の視察の記録や個人の日記などに当たる必要が出てきます。あるいは「中央の立法や行政と地方の行政と地域民衆がせめぎあいながら相互に影響を与え相互変容しながら進展していったのではないか」という仮説を立てたならば、ネゴシエーティングバワーとしての存在(教育に関する協議会や視学官や学校教師)の言説全体を探ることになってきます。
       そのような意味で、仮説を立てる力は世界史探究においても(日本史探究と同様に)重要であり、その力を育成する必要がある(歴史的な探究ができるようになることは歴史総合の目標でもあり世界史探究の目標でもあるため)と考えております。 

      渡邉大輔

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      2025/04/29 at 9:10 pm
  • 投稿者:寺前 駿  原始・古代の「時代を通観する問い」を表現する

    寺前です。福崎先生が作られるプリントは、私の主観ですが、プリントの構造がとても論理的で問いや資料選定の意図がはっきり伝わるという印象を受けて、この考え方をもとに私のオリジナルの要素を入れて教材作成することがあり、参考になっています。
    日本史探究の授業をしたことが無いのですが、質問です。
    日本史探究の「時代を通観する問い」を踏まえて「仮説を表現すること」には、中学までの学習内容や資料をもとに表現できるかが重視されているように私は思います。本授業を行うなかで、中学までの学習内容を意識した問いかけや解説などは行いましたでしょうか。また、中学までの学習内容や「身近な」資料を用いたことによる効果はありましたでしょうか。
    よろしくお願いします。

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    2025/04/28 at 5:10 pm
    • 投稿者:福崎 泰規  原始・古代の「時代を通観する問い」を表現する

      寺前先生、コメントありがとうございます。教材づくりにおいて意識している点をほめていただき、とても嬉しいです笑

       さて、中学までの学習内容を意識した問いかけや解説に関するご質問ですが、まずは本単元内での学習内容を扱う中で、どの学習内容を中学校で学んだかの確認はこまめに入れました。ただこれは「時代を通観する問い」を表現することを見越したものというよりも、学習者のレディネスの把握が主眼であり、他の授業でも日々行っていることなので、この単元だから特別に行ったわけではありません。
       一方、中学までの学習内容を生徒に意識させるための仕掛けとして意識的に配置したのが、プリントNo.4の資料1~3です。生徒に対して「中学校で古代についてどんなことを学んできましたか」と問うても漠然としていて生徒は答えづらいと思い、ある程度特徴はわかるが具体的すぎない文章を読ませることで、その内容を理解しようする過程で学習が持っている古代に対する理解を引き出したり、学習者間での対話を促したりすることを意図しました。その中で析出された古代に対する理解が、今回の問いや仮説につながっているのではないかと捉えています。

       また、「身近な」資料を用いたことによる効果ですが、これに対しては「身近でない」資料を使って同様の学習をしたわけではないので、一概に比較はできません。ただ、西新町遺跡について説明する際の生徒の食いつきは極めて良かったですし、「身近な」資料だからこそより深く資料を読もうとする姿勢は見られたのではないかと個人的には思っています。

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      2025/05/01 at 10:46 pm
      • 投稿者:寺前 駿  原始・古代の「時代を通観する問い」を表現する

        福崎先生、ご返信ありがとうございます。上から目線になった表現で大変恐縮です。
        大変参考になりました。特に「「中学校で古代についてどんなことを学んできましたか」と問うても漠然としていて生徒は答えづらい」この考え方にとても共感しました。問いをつくる時には、このような生徒から見えるものを丁寧にみとることが重要だと改めて感じました。

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        2025/05/06 at 11:34 am
        • 投稿者:福崎 泰規  原始・古代の「時代を通観する問い」を表現する

          いえいえ全くお気になさらないでください。問いや仮説を表現する場面だけでなく、最終的に生徒の「古代とはどういう時代か」への理解を見取る場面においても、生徒が表現をすれば何でもいいわけではなく、そこには一定の方向性が必要だろうと思います。授業者が意図する方向へと自然に持っていける仕掛けが求められているような気がしますね。

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          2025/05/06 at 7:03 pm
  • 投稿者:岸本 弘人  なぜ1930年代に戦争はジェノサイド化したのだろうか?

    はじめまして。沖縄県立宜野湾高等学校通信制課程の岸本と申します。
    私は歴史専門ではないので、「教科書の記述を生徒が理解しやすい言葉で解説するだけの授業」をするのが精一杯でした。しかし今日、単なる日本史A+世界史Aではない授業が求められる中、教育書籍や関連サイトを参考にする中で北村先生の実践に強い関心を持ちました。いくつか教えて頂きたく連絡を差し上げております。

    ①   アクティブラーニングの実施前に、関連事項の講義をどの様に行っているのですか?行っているとすれば前時に行っているのですか?その講義にかける時間はどのくらいですか?あるいは、『20世紀のグローバル・ヒストリー』の該当箇所を事前に読んでおくように指示しているのですか?

    ②   プリントの資料をもとに当時の状況を考察したり当時の人々の考えを想像したりするとなると、資料選択が大きなポイントになるのかなと思います。提示する資料によって学生(生徒)自身の考えや意見に大きな違いが生じるのではないか?とも思ったりしますが、どの様な基準で資料を選んでいるのですか?また、歴史専門ではない高校教師が年間で70時間分の資料(各種データや当時の人々が記した日記等)探しをするときのコツを教えていただけると幸いです。

    ③ 今回のアクティブラーニングの評価基準(ルーブリック)があれば教えて欲しいです。また、学生(生徒)の代表的な回答と、それに対する北村先生の補足と評価を見てみたいです。

    以上、突然で不躾なコメントでありますがご教授いただけると幸いに存じます。よろしくお願い致します。

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    2025/05/01 at 3:28 am
  • 投稿者:公一 田嶋  WWⅠと私たち―11月11日は何の日?

    中島先生、こんにちは。北海道南茅部高等学校の田嶋公一と申します。

    本校は函館市(旧南茅部町)にありますが、郡部的要素を含んだ小規模校です。
    学年にもよりますが、進学よりも就職の方が多く、また、共通テストにほぼ縁の無い学校です。学力層は中位もいますが、下位層の方が多く占めます。

    私が授業をするとき、教科書をベースとしてやることが基本なので、何か特集的なものを扱うことは少ないです。(公共で税の作文に取り組もう、とか、SDGs新聞を作ろう的なことはありますが)
    先生は、何を基準に特集として取り上げ、生徒たちに何を学ばせ、何を得てほしいと考えていますか。教えていただきたいと思います。

    先生のワークシートの最後の評価基準、なんだか自分自身や本校の他教科の先生にも似ているなあと思い、親近感をおぼえました。
    どうぞよろしくお願いします。

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    2025/07/21 at 4:08 pm
    • 投稿者:龍平 中島  WWⅠと私たち―11月11日は何の日?

      田嶋先生、おはようございます。東京科学大附属の中島です。
      コメントをいただき、ありがとうございました。

      私が授業をするとき、教科書をベースとしてやることが基本なので、何か特集的なものを扱うことは少ないです。(公共で税の作文に取り組もう、とか、SDGs新聞を作ろう的なことはありますが)
      先生は、何を基準に特集として取り上げ、生徒たちに何を学ばせ、何を得てほしいと考えていますか。教えていただきたいと思います。
      >学力下位層が多い学校での実践、本当に難しいですよね。「勉強が嫌い」を前面に出してくる子も一定数いますので、何のために教科書の内容を扱うのかまで考えさせられていました(教科書に書いてあるからやる!は理由にならない…)。
      私は、生徒が自分の問題として考えるためには、現代との接点を見出すと同時に「自分自身の世界へのイメージ・理解(と、そこにある歪みや足りなさ)」がヒントになるのではないか?と思って授業をやってきました。今回アップしたものですと「WWⅠは大きな出来事だと分かっているのに、11/11を知らない自分って何者?」というような感じです(雑な説明ですね…)。
      授業で“特集”として取扱う内容も、割とこの「生徒自身の世界イメージに潜んでいるものに自覚的にさせられるかどうか」が一つの基準でした。
      荒井信一先生ではないですが、まさに「世界との付き合い方」=他でもないあなたは、どう理解して生きていくの?という問題提起を沢山してきたつもりです。

      先生のワークシートの最後の評価基準、なんだか自分自身や本校の他教科の先生にも似ているなあと思い、親近感をおぼえました。
      >まずは「やったかやらなかったか」を大切にすると指導してきました。勉強自体大嫌い&勉強で報われた経験が極めて少ない子に対してできるのは、まずは「やってみたら、何かできたわ!」という感覚を経験させることだと思っています。
      ですので、すべて埋めたら「A」&メモ取れたら「S」のように、勉強で褒める機会を埋め込んでいました(やんちゃさ・元気さで褒めるのではなく、勉強で褒めるのが大事だと思っていました)。
      毎回回収→スタンプを押して返すのですが、(形成的評価という言葉が合っているかは分かりませんが)生徒とのコミュニケーションツールにもなって、何よりも楽しく仕事ができていましたね!

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      2025/07/23 at 9:09 am
      • 投稿者:公一 田嶋  WWⅠと私たち―11月11日は何の日?

        中島先生、ありがとうございます。

        学力下位層でも、それぞれ困難さは異なりますね。
        本校はやんちゃというよりも、中学校までに心のダメージを受け、小中学校での積み重ねがほぼない状態の子どもたちを相手にする方が比重が高いでしょうか。だから、教科書をベースに進めていくというのがベターであると判断して授業を進めています。
        ありがたいことに、「学びに向かう力(意欲)」の高い生徒がどの学年にもいて、その子たちが、よい意味で授業の雰囲気をよいもの、楽しいものにしてくれます。
        また、「まるでスポンジが水をグッと吸収するように」学力や学びに向かう力や生きる力そのものを伸ばしてくれる生徒が必ずいて、授業をするこちらがものすごくやりがいを感じることに恵まれているのも本校の良い点です。中学校時代不登校で通した生徒がほぼ皆勤で卒業する、入学当初学力が限りなく最下位だった生徒が進みたい進路を見つけ、進路実現とともにトップの成績で卒業など、例を挙げればいっぱいあります。

        生徒が自分の問題として考えるためには、現代との接点を見出すと同時に「自分自身の世界へのイメージ・理解(と、そこにある歪みや足りなさ)」
        大切な視点ですね。先生の教材を見た時、教科書をベースにすることに加え、「自分自身の問題として考える」「現代との接点を見出す」「自分自身の世界へのイメージと理解」この視点を私も大事にして、年間指導計画・単元指導計画をたてる中で、ここは生徒たちに〇〇を考えてもらいたい、伝えたいからいつもと視点を変えた授業を実践してみようと心がけます。

        すべて埋めたら「A」&メモ取れたら「S」
        私も全て埋めたら「B」、メモを付け加えたら「A」にしています。本当は詳細なルーブリックも必要なのかもしれませんが、学校の実態からそれが良いだろうと判断し、評価してます。

        ありがとうございました。
        先生は現在、上位層の生徒たちを相手に授業していると予想されます。(校名からそんな気がします。)現在は、どのような感じで授業されているのでしょうか?改めて質問になりますが、教えていただければありがたいです。

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        2025/07/23 at 7:36 pm
  • 投稿者:近藤 優樹  主権国家体制と複合国家

     
    武井先生
     
    東京都で教員をしております、近藤優樹です。
    教材の方、興味深く拝見しました。(近代に接近していく)「初期近代」という意味だけではない「近世(史)」として近世ヨーロッパを捉えることを通して、国家や地域の多様性や、国家や地域が直面する課題への理解を深めるというところを重視して、歴史学の潮流を押さえつつ、それを現代的な諸課題を把握する視点の一つとして位置付けられた点に、武井先生のこだわりがあるのかなと教材を拝見していて考えた次第でございます。
     
    以下、私が特におもしろいと感じたところと、質問させていただきたい点になります。
     
    ①№73では、「遅れた東欧・北欧」という認識の歪み(偏見)を見直すことから、当時のヨーロッパ全体が直面した課題を浮き彫りにすることで、多文化共生や移民・難民との共生といったことは、ヨーロッパ(や地球)全体で向き合い続けてきた課題として生徒に把握させることをねらいとしたのかな、と教材を拝見して感じた次第です。
    №73に関連して三点質問させていただきたく思います。
     一点目に、ぜひ№73での生徒のMQでの記述や授業での手ごたえをお伺いできますと幸いです。

    二点目に、「遅れた東欧・北欧」という認識の歪みを授業で取り上げようと武井先生が№73のMQや目標を設定した経緯や問題意識につきましても、武井先生のお考えをぜひお伺いしたく思います。

    三点目に、そもそも、「遅れた東欧・北欧」というのは、生徒の世界(史)認識として把握されたのでしょうか。私自身は世界史探究で東欧史・北欧史を扱ったことがまだないため、生徒が東欧や北欧にどのような認識を持っているのか、具体的にイメージできていない部分があります。この点につきましても、武井先生が、生徒の世界(史)認識をどのように捉えたのか、お伺いできますと幸いです。
    (東欧や北欧といった地域を主題として取り上げた実践は私自身これまで目にすることがなかったため、貴重な授業実践例として拝見しました。)
     
    ②№76で「文明」とか「野蛮」といった歴史総合の帝国主義で扱う概念的知識を用いて「啓蒙の世紀」や奴隷貿易といった歴史的事象への理解を深めようとする工夫がなされているのかなと感じました。歴史総合と世界史探究の概念による接続の実例として興味深く拝見しました。
     
    ③メッセージの方で言及されていた「「国民国家」をイメージできているかどうか」で生じた成果物の出来の差ということについて、より詳細にご教示いただけますと幸いです。これはEQの成果物についてのことでしょうか。
     
    以上につきまして、長々と申し訳ございません。お時間のある際にご確認いただけますと幸いです。

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    2025/08/26 at 12:32 am
  • 投稿者:近藤 優樹  「大衆」って正しいの?

    山本先生

     

     第2部会会員の近藤です。教材の方、興味深く拝見しました。

     教材や指導の意図についての丁寧なご説明もありがとうございます。山本先生の大事にされていることや課題として感じられていることを、私自身の授業でのそれらと照らし合わせて再考することができました。

     

     資料や学習事項を精選することで、わかりやすさを担保しつつ、精選した資料や学習事項で多面的・多角的な理解や思考を目指すというところは、私自身も歴史総合の授業を実践していた際に重視していたことであります。

     私の場合、授業で扱う資料を増やしすぎると資料を丁寧に読むということが疎かになってしまうことが多かったため、なるべく1時間に扱う資料は1~2つに限定するように心がけていました。

     一方、多面的・多角的な解釈や思考を促す資料を探すことがとても難しいことや、1つの資料からさまざまな情報を引き出すような問いがなかなか思い浮かばないということが課題としてありました。

     

     二点、質問させていただけますと幸いです。山本先生のお考えについてご教示ください。

    一点目に、松岡先生が「大衆化」について整理された文章を、(歴史総合の教科書や資料集にはほかにも「大衆(化)」について記述されている資料があるなかで、)資料として選択した意図についてお伺いできますと幸いです。

     

     二点目に、大衆の政治参加や流行の課題を考察させるために、関東大震災での朝鮮人虐殺を扱われておりましたが、一見すると難易度が高いように見えました。この資料と発問の授業での生徒の手応えや反応について、ご教示いただけますと幸いです(2年前のご実践を掘り返してしまいすみません。当時の生徒の反応などが残っていればで大丈夫です)。

     

     ここからは、他にどのような資料や事項が扱えるかということに関して、私なりに考えたことになります。

    山本先生が大事にされている、内容を精選しつつ多面的・多角的な理解・思考を促すための歴史的事象・資料として、マスメディアについて扱われた資料があるのではないかと考えました。高校歴史教育研究会『資料と問いから考える歴史総合』浜島書店、2022年、p.108を読みながら思いついたものです。

    マスメディアが大衆を動員する手段として機能した一方、チャップリンが映画を通じて反戦を大衆に訴える役割を果たした歴史などから、マスメディアが世論を(大衆をファシズムに動員する方向にも、反戦を呼びかける方法にも)左右しうることを概念的に理解させることができるのではないかなと考えておりました。

    松岡先生の資料では、大衆の政治参加の形成過程を、およそ理性的なものから情緒的なものへと、わかりやすく整理しているけれど、松岡先生の資料の文脈に、チャップリンの『独裁者』に込められたメッセージはどのように位置づけられるのか、メッセージを発信する側と受け取る大衆それぞれから、考えさせることができるのかなと思いました。

     

     長々と申し訳ございません。山本先生の今後の教材の改善に、少しでも結びつきましたら幸いです。

     

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    2025/08/26 at 9:48 pm
  • 投稿者:近藤 優樹  賊って何だ?

    野々山先生

    高大研第2部会会員の近藤優樹です。
    世界史探究の単元でのご提案、興味深く拝見しました。

     寺前さんと野々山先生のやり取りを読み込むなかで、単元全体の目標論が段々と見えてきました。教材(ワークシート)だけでは、目標論や具体的な授業の様子を把握することが難しい部分を実感すると同時に、このコメント機能を活用して、教材提供者および見る側の授業づくりで大事にする視点それぞれに気付くことができるという、教材共有サイトのコメント機能の役割を改めて確認することができた次第です。

     寺前さんとのやり取りをふまえて本教材を拝見すると、各時間の資料は非常に厳選されつつも、「賊」とされる立場に意図的に異なる評価を導き出すことのできる複数の資料を配置することで、「賊」への一面的ではない評価に生徒を到達させているように見受けられました。精選されつつも単元を貫く主題を設定することで、世界史の多面的・多角的な理解を促そうとされている点も、野々山先生が重視されているポイントなのかなと感じた次第でございます。

     私からは、野々山先生の授業づくりにおける具体的な発問の設定に関してご質問させていただきたく思います。
     野々山先生は、資料から発問を設定する際に、どのようなことを重視されたり注意されたりしているのでしょうか。野々山先生のお考えをご教示いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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    2025/08/26 at 11:54 pm
    • 投稿者:寺前 駿  賊って何だ?

      他の皆さまとありましたので、私も反応します。少しずれると思いますが、資料と問いの関係というより、私の教材研究のときの考え方を記します。以下に書くことは私の理想であり、完璧にできていたとは思っていません。

      私は、授業をつくる際には、私が緩めに設定した全体のねらいと合致する歴史の内容を出発点にして、そこから生徒の実態、現状の世界、授業を行う私の思考を勘案して、どのような授業を作ることができるのかを考えます。このとき、私から見えなくなってしまっているものはないか、授業の目的に良い事実だけを集めていないかと考え直すようにしています。私が歴史の解釈を突き詰めるなかで、授業のねらいや生徒の実態、現状の世界、私の問題意識とのつながりがみえてくるのではないかと思っています。このなかで、この授業にマッチする資料や問いが思い浮かんだ際には、まとめておきます。
      その上で、授業の構成がある程度まとまってくると、思い浮かんだ資料や問いに加えて、私の記憶からこの授業とマッチする資料を探して、それに応じた問いを組み立てて、全体の構成を考えて授業をつくっています。
      ベースに歴史の内容やその解釈があることが特徴かと思います。感覚的なものでうまく説明ができないのですが、そこから外れた問いの設定はしたくないと考えています。

      この作り方は、つながりに気付くまで授業をつくれないので、忙しい時期だとあまり上手くできていないのが現状でした。そのときは、まあそういうときもあるよねと割り切って自分の精神安定の方を重視しています笑。(というより、そのときおこなっていない時代や地域の内容でつながりに気付くことが多いので、その気付きだけ書きとめておくみたいなことをしていたと思います。)

      『現代につなぐ歴史授業デザイン』(https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-333726-9)の「現代を生きる私たちの文脈を問い直す」では、私のそうした考えをもとにした実践を紹介しています。

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      2025/08/28 at 4:21 pm
      • 投稿者:近藤 優樹  賊って何だ?

        野々山先生、寺前先生
        ご返信ありがとうございます。
         先生方の指導観や授業観を自己のそれらと照らし合わせて振り返ることで、たいへん勉強になっております。

         野々山先生の単元全体の位置づけからの資料の選定ということ、なるほどです。私が授業をやっていた際には、一時間単位で授業をつくることにいっぱいいっぱいで、単元全体と資料の関係性はなかなか踏まえられていない状況でした。資料を使うことが過度に目的化したために生じた課題のような気もします。
         
         私の場合は、資料や発問を扱う際、教科書本文の歴史理解を促すことのみに目的化させないことを意識しております。むしろ教科書の記述や歴史解釈と一見すると矛盾するような解釈や、異なる観点からの情報が得ることを通して生徒自身が歴史理解を構築していくを目指して選定しています(そのようなものが中々見当たらないのが難しいところですが…)。
         発問に関しては、資料を読まないと解けないような発問の文言にすることを心掛けていました。しかし、これだと、資料ありきとなってしまっていた部分もあり、生徒の実態とかけ離れてしまっていた部分があることも否めません。野々山先生とのやり取りから自身の実践を振り返ることを通して気付くことができた次第です。
         
         寺前先生の教材研究の際のプロセスを詳細にご説明いただきありがとうございます。特に、教材研究の段階で視野から抜け落ちてしまっているものはないか確認するという手続きは、これまでの私はなかなか意識することができておらず、たいへんに参考になります。精神安定の件、読んでいて少しホッとしました(笑) それとつながりへの気付きは、非常に共感して読んでおりました。中長期的な単元を考えたり、実践を振り返ったりする際に私はなんとなく気付くことが多かった気がしております。
         
        こうやって様々な先生方のやり取りから議論がふくらんでいくところも、教材共有サイトの強みですね。
         私からも、ぜひ皆様からのご意見やお考えをお聞かせいただきたく思います。どうかここから議論が広がってくることを楽しみにしております。
         

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        2025/08/29 at 12:57 pm
        • 投稿者:野々山 新  賊って何だ?

          私も同様に、史料を使うことを目的化していたライフステージがありましたので、強く共感します。ちなみに私はこのライフステージを卑下するつもりは今でもありません。この過程があったからこそ、史料批判のスキルは向上していったし、自身の糧になっていきました。当時の「私の授業理論」としては適切な選択だったと思っています。なぜその方法を選択するのかと自身に問い直した時、回答できるように授業を創っていきたいものですよね。

          他の先生方も、問いと資料の選択原理についてご意見をお知らせいただけますと幸いです。

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          2025/08/29 at 10:56 pm
          • 投稿者:近藤 優樹  賊って何だ?

            野々山先生、ご返信ありがとうございます。
            たいへん励みになるお言葉をありがとうございます。
            今後はどの資料を扱うか、選んだ資料にどんな問いを設定するかということを考えることに加えて、それらの資料や問いを扱うことを通して、どのような力を生徒に獲得させたいかといった、目標論等を踏まえて考える力を鍛えていきたいと考えている次第です。どうか引き続き、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

            私からも、他の先生方の問いと資料の選択原理についてご意見を頂戴したく思います。お聞かせいただければ幸いです。

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            2025/08/30 at 9:18 pm
    • 投稿者:野々山 新  賊って何だ?

      寺前さんとの意見交換にご参入いただき、ありがとうございます。大歓迎です。
      資料と問いの関係については、きっと授業者を取り巻く多様な条件に影響を受けることがあろうかと思います。以下に示す考えはあくまで私の条件に依拠したものであることを前提として、お伝えさせていただきますね。同時に、他の先生方の資料と問いの関係に関するご意見を伺いたいところです。

      私は、構成している単元全体に効果的に位置づくようにそもそも資料を選定しています。資料解釈を通して、異なる立場からの考察を促したり、異なる観点からの考察を促したりするわけですね。導入として生徒に驚きを与えることを狙ったり、新たな発見に結びつくことを狙ったりすることもありますね。従って、資料に発問を付す際には、その資料を選定したねらいに焦点化されるよう心掛けています。
      ちなみに、こうした授業にある程度慣れてくるまでは資料ありきの発問や授業構成でありました。この際は、私が面白い、使いたいと考えた資料を、いかにすれば教材化できるかという視点で付した発問となりますね。これは、現在の所属校からすると生徒不在の問いとなってしまいそうと悪手に感じますが、対象となる生徒の実態が変容したらまた状況は変化するかもしれません。
      取り急ぎ、こうした作法にてワークシートを作成しております。近藤さんや他の皆さまはいかがでしょうか。お聞かせいただけると幸いでございます。

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      2025/08/28 at 12:28 pm
  • 投稿者:近藤 優樹  「多民族国家」のあり方と「下から」の政治運動

    寺前先生
    東京都の教員の近藤です。中国史のメタヒストリー学習、興味深く拝見しました。
    メタヒストリー学習を、歴史解釈の多様性の理解のみにとどめることなく、多文化共生に対する理解をより豊かなものにしたり、現行中国政権のあり様を多角的に捉えたりするといった目標論が伝わってくる教材で、たいへん興味深かったです。
     
    中国史を、漢民族中心主義的な見方から脱却させるべきということは、以前から私自身も考えていたことでございますが、寺前先生の教材中に位置付けられた、中国の歴史教科書の叙述から、漢民族中心主義的な見方からの脱却のみを目的化した場合、本当に少数民族(の歴史)を理解することは難しいのではないかと考えた次第でございます。
    その意味で、寺前先生の教材の問い「あなたは中国の歴史の教科書をどのように変えれば、(もしくは変えなければ、)現在の中国の問題を解決を向かわせることができると考えるか?」は生徒に考えさせるだけではなく、我々教員も考え続けなくてはならないと強く感じた次第です。
     
    一点、質問をさせていただきたく思います。本教材では、中国政府の歴史認識を批判的に捉えるという目標が位置付けられており、「一つの中国」という言説が、現行政権から発信される今日からして至極真っ当で世界史教育で達成すべき学習目標だと考えます。
    一方、教室のなかには嫌中意識をもつ生徒がいることが想定されます(私の場合、教育実習の際にそれを強く実感したことがあります)。寺前先生は、そのような教室空間が想定されるなかで、どのようなことに配慮しつつ本教材を扱うべきだとお考えでしょうか。寺前先生のお考えをご教示いただけますと幸いです。
     
    ここからは「メッセージ」での寺前先生の実践での手応えから私が考えたことになります。
    寺前先生のご実践での生徒のつまずきから、①現代の中国が抱える課題【資料1・2】、と②現代中国の歴史教科書叙述(の特徴やそれが孕む課題)、という学習対象二点に若干距離があるのではないかなと考えました。勝手な推測になりますので、見当違いでしたら申し訳ございません。
    上記の点を補うために、現代の課題を考えるうえで、歴史叙述や歴史解釈が解決に寄与することもあれば、歴史の見方次第では、現代の課題を見落としたり、問題を悪化させたりしうるといった事例をより直接的に扱うことで、上記①②の間の距離を埋められるのではないかと考えました。
     具体的な資料でいえば、『歴史総合・日本史探究・世界史探究の授業を実践するためのヒント』(山川出版社、2024年)で武井寛太先生が紹介されている実践中の資料(確か習近平の演説です)がフィットするのではないかなと思いました。現行の中国政権の「一つの中国」という理解に基づく歴史解釈(の課題)を明確にすることができるのではないかと考えました。
     

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    2025/08/27 at 5:02 pm
    • 投稿者:寺前 駿  「多民族国家」のあり方と「下から」の政治運動

      コメントありがとうございます。高大研大会でお会いでき、さらに私の教材を読み込んでいただき、周囲の方々と議論もされているとお聞きし、本当に嬉しく思います。本教材の良い点、改善点を指摘していただいたことによって自分自身の実践の改めて見つめ直すことができました。特に「①現代の中国が抱える課題【資料1・2】」と「②現代中国の歴史教科書叙述(の特徴やそれが孕む課題)」の距離は私もあると思います。武井先生が紹介していた資料、今後の教材づくりの参考になります。今見返してみると本当に恥ずかしい授業をしているなと思う一方、そう思えるということは成長しているのかなとも思っています。脱線しました笑。
      質問にお答えします。前提として、この実践をおこなったのは2年前のことであり、かつ私は現在教員ではないため現状の認識のとのズレがある可能性がありますが、ご容赦ください。私の場合たまたまですが、明らかに「嫌中意識」を発言する生徒に出会ったことがありません。ただ、潜在的にそういった意識をもつ生徒がいる可能性はあるので配慮は絶対に必要なことです。
      まず、本教材に限らない全体の配慮としては、私は初回の授業、さらにその後の授業で何度も、みんな背景が異なるのだから意見が違うのは当たり前のこと、だから私は1人1人の主張を尊重するので安心して発言してほしいこと、生徒も他の生徒に対してそれ尊重してほしいこと、ただ他者を攻撃することは許さないこと、それらは1人1人が幸せな社会になるために必要なことだからと伝えるようにしています。
      また複数の授業で、異質な他者を嫌うことを生徒の身近な事例(クラスで「浮いている」人を嘲笑することなど)と歴史上の事例(移民排斥など、あらゆる時代地域で存在すると思います)をつなぎ、なぜ異質な他者を嫌うことが生まれるのか?、異質な他者を排除することによって生まれることは何か?、それを歴史から学んでみよう、といった問いを投げかけることをしたいと思います。
      本教材での配慮としては、現在の中国政府の政策の批判イコール中国人を差別することには繋がらないことを伝える、中国政府と中国人を同一視し、一括りにするのではなく一人一人が人格を持っているのだと意識づけることが大事なのかなと思います。例えば、他の授業で、野々山先生の日中の高校生の交流授業(https://www.asahi.com/sp/articles/ASS5H2TK8S5HONFB005M.html)のような活動をおこなうことで、中国の高校生との交流を通して、生徒のなかの「嫌中意識」というイメージを考えなおすことにつながるのではないかと思います。
      上記のように1つの授業というより、1年間や3年間を通して、そのような教室空間にしないようにすることを教員と生徒ととも目指していくことが重要だと考えます。
      お答えから少しズレている気もしますが、私からのコメントは以上です。ありがとうございます。

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      2025/08/28 at 3:27 pm
      • 投稿者:近藤 優樹  「多民族国家」のあり方と「下から」の政治運動

        こちらこそ、高大研大会ではお世話になりました。いつもZoom上でお名前を拝見していたため、直接お話ができてたいへんうれしかったです(笑)

        私は現在、歴史の授業を実践できる立場にないため、教材共有サイトの先生方のご実践を拝見して、先生方の指導のねらいや教材の特徴を見抜く力を鍛えていこうと考えている次第でございます。そのなかで先生方の今後の授業の改善につながることが何かしら生まれればよいなと考えています(なんて自己中心的な考え方なんでしょう)。

        質問へのご返答ありがとうございました。日ごろの授業における「異質な他者」との向き合い方や、生徒の生活経験と歴史とのつなぎ方など寺前先生が授業を行っているときに大事にされていることが伝わってきました。中国政府と(一人一人人格を持っている)中国人を同一視することが、いかに危ういことか、そのような認識の歪みを克服していくことの必要性を、寺前先生とのやり取りを通して再認識することができました。

        私は以前、歴史的な事象を身近な生活経験に引き寄せて考えるということは、認識の単純化を招き、歴史的な事象の特徴やその固有性を見落としてしまうことを心配し、身近な生活経験と歴史的な事象を(下手に)引き寄せることに躊躇いを感じていました。
        しかし、今回の寺前先生のご実践を拝見することや、寺前先生とのやり取りを通して、生徒の他者への理解や認識に関わる事象の場合、生徒が他者への認識の歪み(偏見)をもっていることは往々にしてありうるため、生徒が自分自身の他者への理解のあり方を問い直す=自身の偏見や認識の歪みに気づくことを促す発問や場面は、絶対に必要だと考えるに至りました。
        今でも過度な単純化にはやはり抵抗感はありますが、授業を構成する際、歴史事象を、生徒自身の世界(史)認識の問い直し、偏見の克服と完全に切り離してしまっていないか、絶えず気をつけていきたいと考える次第です。このあたりのバランスを、うまいこと整理していきたいなと思います。

        拙い質問にも関わらずたいへん丁寧にご説明いただき、ありがとうございました。今後も寺前先生のご実践から勉強させていただきたく思います。
        どうぞ引き続き何卒よろしくお願いいたします。

        追記:
         野々山先生の教材の方にもコメントしていただきありがとうございます。こうやって、いろんな人たちが教材や目標論等について語り合える場として、教材共有サイトが充実していったら良いなと考えております。

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        2025/08/28 at 11:34 pm
  • 投稿者:近藤 優樹  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

    野々山先生

    教材の方、興味深く拝見しました。
    野々山先生の歴史総合の授業は、私の主観にはなりますが、単元全体の主題や、獲得させたい概念が一貫しており、いつも大変勉強になっております。

    どの教材もたいへん興味深いのですが、私としては、主題「金メダルはどの国のもの?」で、およそ1930年代という「国際秩序の変化や大衆化と私たち」で主に扱われる時期を「近代化と私たち」で扱われていることの意味が大きいなと感じました。歴史総合の教科書が通史的な構成となっているため、私の場合、授業で取り上げる事象がどうしても年代や時期区分に縛られてしまうことがあったのですが、野々山先生の上記の主題は、その点を柔軟に考えて教材を作成されており、教材作成の幅をもっと広げていきたいと考えた次第です。同時に、野々山先生のこうした取り組みが、より多くの教員や、教科書や資料集などの構成にも反映されていけばよいなと考えております。
    また、【資料2】は初めて見た資料なのですが、非常にショックを受ける内容でした。私は現在、特別支援学校で働いている立場のため、普段接している生徒のことを思い起こすと、【資料2】の内容は本当に恐ろしく感じます。

    教材につきまして、二点ご質問させていただきたく思います。

    一点目に、主題「フランスの国家はどーなってんの?」で、(「今日の問い」を考えるためには関連性が薄いと思われる)ミドハト憲法を扱っている理由や意図をお伺いしたく思います。

    私なりのミドハト憲法を扱われたことの理由としては、国民意識を人々に持たせるということが、為政者の思惑によって行われる側面があるという概念的知識を獲得させること、及び人々の「自由」が為政者によって保障される側面があることを(ドラクロワの資料と対比させることを通して)把握させる意図があるのかなと考えた次第です。
    私の理解が不十分な点がありましたら申し訳ありません。以上の点につきまして、野々山先生の意図をご教示いただけますと幸いです。

    二点目に、主題「金メダルはどの国のもの?」の「概要」で、戦争中の女性の役割を家庭と戦争の二択で選択させた意図をお伺いしたく思います。家庭の役割としても家庭の外の労働力としての役割を担うことを、女性は求められたと思うため、実態としては両方とも事実として当てはまると思うのですが、このような発問を設定した理由につきましてお伺いできますと幸いです。

    以上二点につきまして、野々山先生の意図やお考えをご教示いただけますと幸いです。
    よろしくお願いいたします。

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    2025/08/30 at 9:11 pm
    • 投稿者:野々山 新  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

      ご質問ありがとうございます。
      1点目について、ちなみにこちら主題の漢字を変換ミスしており、「国歌」の誤りでした。
      それはさておき、ミドハト憲法については、このワークシートの構成からしてこうした潮流を生み出したのはヨーロッパであるという認識(つまりは西欧中心史観)を再生産するだろうなという懸念があり、それを相対化することを狙っています。イスラーム世界への固定観念も強いですので、史料を読まずに自身の想像で語ると誤認することを想定しています。ただ歴史総合の単位数からしてイスラームにあまり踏み込めないと私は考えており、偏見を戒める程度に留まっています。実際の授業では、時間の都合でこの資料に言及できなかった学級がほとんどでしたね。

      2点目については、事実の整理は教科書叙述を予習段階で目を通すことを求めており、その確認として設置したものです。従って、率直に求めているのは「戦争」という選択です。もちろんご指摘のように、「家庭」が誤りであるとは言い切れないことは理解します。もしここで生徒がそのように反応してきた時が、授業者としてはワクワクするわけですよね。次の単元を構想する手がかりになるためです。実際には、学んできている文脈や予習の情報から私の想定に沿った反応で進んでいきました。

      このワークシートの資料2について感想をお寄せくださり、大変嬉しく思います。私もこの資料を見た時の衝撃は非常に大きなものでした。ですから、教材として自身のその衝撃を交えながら扱った次第です。この情意は私が教材開発を進めていく原動力です。ちなみにこの資料との出会いは新聞記事でした。研究書の読書量だけでなく、痛み、傷つき、悩まされる瞬間や、あるいは喜び、共感し、幸せを感じる瞬間が、自分の授業に命を吹き込んでくれていると改めて感じさせられました。ご指摘下さったおかげです。ありがとうございます。

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      2025/08/31 at 1:51 am
      • 投稿者:近藤 優樹  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

        野々山先生
         
        素朴な疑問にもかかわらず丁寧にご説明いただき、また授業での実際もご連絡くださってありがとうございます。
        ミドハト憲法の件、用いられた意図について理解することができました。西欧中心史観や、それと表裏一体のかたちで生じうる非西欧への認識の歪みは、歴史総合のカリキュラム構成や単位数では悩ましいところですよね…。
         
        二点目の件に関して、次の単元を構想するための発問としての位置づけとのこと、大変参考になりました。選択式の設問でありながら、歴史の解釈性についても触れられることも可能で、様々な工夫が感じられる発問だと思いながら拝見しておりました。

        資料2に関わる資料を発見した際の衝撃やそれが授業をつくるうえでの原動力となったとのこと、強く共感いたします。資料の活用をネタや技術的な話題にとどめないためにも、資料と向き合った際の我々の情意や問題意識の大切さを野々山先生とのやり取りを通して再確認することができました。ありがとうございます。
        資料2の関連でいえば、以前、ナチ政権が作成したドイツ国民にとっての理想的な家族像を描いたポスターを授業で扱ったことがあります(以下に資料を閲覧できるサイトのURLを添付いたしますので、もしよければご覧になってください。(https://germanhistorydocs.ghi-dc.org/sub_image.cfm?image_id=2040
        )。そのときは、ジェンダー視点に着目し、ナチ政権にとっての理想的な家族像や女性の役割を描いたものとして扱ったのですが、野々山先生のワークシートを拝見して、ナチ政権にとって相応しくない国民を排除することを暗に示す資料としても解釈することができると考えました。資料2も、「國民優生方策」のような優越意識が、国民としてふさわしくない存在を、その国民の内側にもつくりだす(=知らずに誰かを傷つける)ということに気づくきっかけとなると改めて拝見していて考えた次第です。
         
        改めて、「金メダルはどの国のもの?」は、スポーツ選手の活躍や健康・体力の増強、(平和の祭典であるはずの)オリンピックなど、生徒にとって無自覚のうちに肯定的に捉えられる諸事象が、国民国家(による国威発揚)の論理と結びつくことでさまざまな矛盾点や課題が生じるということに気づくことのできる教材だと思います。この教材から非常に多くのことを学ぶことができました。ありがとうございました。

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        2025/09/01 at 6:54 pm
        • 投稿者:野々山 新  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

          新たな資料を含めてアレンジ案をご提案いただきありがとうございます。
          まさにステレオタイプな「家族」像が示される資料ですね。ヴィクトリア女王とアルバート公を描いた図像とも共通性がありますね。総力戦体制下での性にも視野を広げて、性的役割分業に着目して近代化から大衆化に至る過程で単元を構成することができそうです。ぜひぜひ、こうしたアレンジ版を実践くださり、再度教材としてご提供いただけますと嬉しいです。

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          2025/09/02 at 3:17 pm
          • 投稿者:近藤 優樹  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

            ご返信ありがとうございます。
            以前この資料を使用して実践した際には、およそ第一次世界大戦前後に女性参政権を導入する国が出てきた一方、この資料に典型的に見られるような性別役割分業や家族のあり方を望ましいものとする価値観が継続したこと、ナチ党はそのような大衆社会の特質をふまえて支持基盤を拡大していったことを、「大衆化」の一側面として生徒が理解できるように活用したことがあります。
            野々山先生のご指摘にある、単元構成までふまえての教材となっていたかは微妙なところですが、近代化から大衆化に至る過程を、性別役割分業に関わる変化と継続に着目して捉えるにはぴったりな資料だと思います。

            近代化から大衆化に至る過程というところに関連して、追加でもう一点、ご質問させていただきたく思います。

            本教材が主題とした国民統合などの概念や紹介文中にある「育成したい力」、野々山先生の問題意識にある昨今の排外主義的な風潮は、どれも「大衆化」に関わる事象だと思われます。野々山先生は、本教材の学びを、「大衆化」を主に扱う大項目Cで、どのように結び付けていこうとお考えでしょうか。本単元の学びを経た「大衆化」の歴史の教材づくりの展望につきまして、お考えをご教示いただけますと幸いです。

            野々山先生が以前ご提供くださった「大衆化」の教材に点につきましても、拝見させていただいております。またそちらの方につきましても、いずれ感想をお伝えできればと思います。
            以上につきまして、どうかよろしくお願いいたします。

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            2025/09/02 at 10:46 pm
          • 投稿者:野々山 新  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

            本単元から次単元への関連性について論点を拡張いただき、ありがとうございます。学校現場における研究授業では一つの授業に限定された対話となることが多いですが、こうした視野から展開される議論はまさにエイムトークにつながるところでありましょう。大変嬉しく思います。同時に、生徒を見なければ共感を得ることが難しくなるところかもしれません。
            さて、排外主義的な風潮を「大衆化」に関わる事象と捉えることについてですが、私は同意しません。「近代化」においても、「グローバル化」においてもなされているものではないでしょうか。それぞれの時代や地域における条件によって生起する状況は異なりますが、例えば古代においてもヘレネスとバルバロイという表現にも表れるように、絶えず繰り返されてきたものと考えています。確かに「大衆化」との親和性は高いことは認めますが、そこで扱うかどうかはそれこそ教師のねらいに依拠するものだと考えます。私は、時事的な状況を踏まえて今こそ扱うべきだと判断し、単元を構想したのであります。
            本単元では排他的風潮が、対立をも生み出していくことを考えてきました。次の単元では、今でも発生している戦争を取り扱おうと考えています。2024年6月23日、沖縄の慰霊の日に執り行われた式典にて当時の高校生が朗読した詩を起点に、戦争の「せ」の字も知らない(教師である私を含む)私たちが平和をいかに紡ぐことができるのかについてともに考えていこうと構想しているところです。

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            2025/09/05 at 3:29 pm
          • 投稿者:近藤 優樹  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

            野々山先生

            ご返信いただきありがとうございます。
            野々山先生の単元構想につきまして、私の理解が不十分な箇所についてご指摘いただきありがとうございました。ご指摘いただいたことで、どうして「近代化と私たち」の中で、1930年代の事象を扱ったのかといった意図についても併せて理解を深めることができたように思えます。
            まだまだねらいについての議論が苦手なことを実感すると同時に、もっと授業や教材を捉える視点を鍛えていこうという思いを強く抱くことができました。ありがとうございました。

            また、これからの単元の構想についてもご教示いただきありがとうございました。今後の野々山先生の教材からも、勉強させていただきたく思います。どうか引き続きよろしくお願いいたします。

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            2025/09/07 at 12:18 am
          • 投稿者:野々山 新  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

            文化祭や新人戦への対応で返信する余力がありませんでした。
            排外主義的な風潮に関する理解につきまして、オンラインでのコメントであるがゆえに、もし表現が強く感じられたようでしたらお詫びいたします。こうした理解についても相互に吟味し合うことができる場だと思いますので、ぜひ批判的に対話していけますと幸甚でございます。
            ぜひ近藤さんの授業や単元もご紹介いただけますと大変嬉しく思います。現在は学期中で余裕が(私も含めて)あまりないところかと存じます。落ち着いたところで、ぜひご検討くださいませ。

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            2025/09/10 at 4:50 pm
          • 投稿者:近藤 優樹  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

            ご多忙のところご返信いただきありがとうございました。
            表現の県につきまして、どうかお気になさらないでください。
            私も排他的風潮が「大衆化」に限定される現象ではない(そのため、あらゆる時代や地域で扱われるべき現象である)という点は、野々山先生と同様の立場でしたが、そのことを自分のなかでエイムトークと重ねて整理することができていませんでした。野々山先生とのやり取りを通してその点の理解をふかめることできました。大事な気づきを得ることができ、たいへん嬉しく思っております。

            教材の紹介につきましても、励みになるお言葉をありがとうございます。なかなか単元でまとまったものとなると難しいかと思いますが、昨年度まで非常勤講師として授業を行っていた際に実践した授業で、紹介できそうなものがありましたらぜひご意見を頂戴できればと思います。

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            2025/09/10 at 11:38 pm
          • 投稿者:近藤 優樹  単元:私たちが何気なく考えている○○人は知らずに誰かを傷つけてはいませんか?(考査問題付)

            「大衆化」との関連性や排他的風潮を「大衆化」でどのように扱うかについてお伺いした意図につきまして、私のなかでも整理ができましたので、追記します。
            野々山先生の本単元では、ナショナリズムが引き起こす排他的な風潮を現代的な諸課題として位置づけ、その形成過程を授業で扱うことを重視していると「メッセージ」から解釈しました。

            ここの排他的な風潮というものを私であればどう授業で取り上げるかと考えた際に、情報を発信する主体や、発信された情報が大衆社会のなかでどのように受け止められるかという側面を扱うと考えました。そこの点は、「近代化と私たち」以上に「国際秩序の変化と大衆化や私たち」の方が親和性が高いと思い、野々山先生が「大衆化」との諸々の関連をどう考えているのか、質問をさせていただいた次第です。加えて、野々山先生の本単元の教材では、資料が政府や権力側から発信された情報が多く、(上手い言葉で説明できませんが)「私たち」により近い立場から発信される情報や資料が少ないと感じました。
            この点を野々山先生が、本単元の学習の後にどのように補ったり、本単元以降の単元をどのように充実させていったりすることを想定されているのか、お伺いしたかったため、質問をさせていただいた次第です。

            説明不足な点が多々あり、申し訳ございません。私の本単元の教材について理解が不足している点などがありましたらご指摘いただけると幸いです。どうか引き続きよろしくお願いいたします。

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            2025/09/11 at 12:08 am
  • 投稿者:近藤 優樹  「日本人」とは誰か?

    田中先生

    東京都で教員をしております近藤優樹と申します。
    教材のご提供ありがとうございました。先月の高大研大会でのご報告とあわせて大変勉強になりました。

    以下、感想と質問になります。
    資料2及び資料4の「沖縄側の参加者」で語られる、マイノリティが抑圧的な状況から脱却するために多数派の言語を受け入れるといったような主張を、生徒がどのように評価したのかという点が気になりました。もしこの点について、生徒の記述や感想などがありましたらご教示いただけますと幸いです。
    というのも、これらの資料中の記述から、「沖縄の人びとが同化に「抗った」面や、沖縄の人びとが積極的に同化を受け入れていった様子」について考えるきっかけになりそうだと思ったためです。
    また、「社会の多様性」と上記の資料中の主張は、対立する関係にあると思いますが、生徒が資料2や資料4の主張への評価を考えることで、社会の多様性を実現することの難しさや、社会の多様性の実現を阻む言説などについて様々な観点から考察することができそうだと考えた次第です。

    以上につきまして、私の教材や授業のねらいに対する理解の誤認などがあればご指摘いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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    2025/09/03 at 8:28 pm
  • 投稿者:近藤 優樹  憎しみの悪循環の乗り越えることの難しさ(パレスチナ問題)

    寺前先生

    第二部会会員の近藤です。高大研大会ではお世話になりました。
    本教材について、現代の世界と、生徒を結びつけるという、寺前先生の歴史教育で目指したいことが明確に伝わってくる教材だと感じながら拝見しておりました。
    高大研大会の際にこちらの教材に関して色々とご質問させていただきましたが、改めてお伺いしたいことがあり、本メッセージを送信させていただいております。

    質問としては問5に関してです。本授業の主題について考える手がかりの発問として、問5を設定した意図をより詳細にご教示いただけますと幸いです。

    過去の戦争や暴力と、現代でも進行し続ける戦争や暴力を比較することは、何を歴史から学んでいるのか、あるいは何を学ぶことができていないのか(見落としているのか)といったことを考えるうえで有効な歴史の学び方だと、私は考えております。一方で、安易な比較を行うことで、事象ごとの固有性を見落としたり、「どっちもどっち」というような相対主義を招いたりしてしまうのではないかという不安も感じています。
    そのため、寺前先生がなぜ問5のような発問を行ったのか、お伺いできますと幸いです。どうかよろしくお願いいたします。

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    2025/09/05 at 10:02 pm
    • 投稿者:寺前 駿  憎しみの悪循環の乗り越えることの難しさ(パレスチナ問題)

      ご質問ありがとうございます!
      正直なところ、私が体験していない他者の生や死を扱う問5とそれに続く問6について、このような比較する問いは良くないだろう、見落としているものがあるだろうと今でも悩んでいる部分です。その上で、作成時に問5を設定した意図を記します。

      問5は、次の問6を生徒たちが内容を理解して取り組むことができるようにするために設定したものです。
      本教材を実践した生徒たちの中には、問6をいきなり投げかけるとよくわからないと考えることをやめてしまうと想定される生徒がある程度いました。そのため、資料5,6の内容を理解し、次の問6を考えるための補助となるために問5を設定しました。
      また、比較するような問い方になっている理由を問6を設定した意図も含めて答えますと、生徒たちに情意面を働かせざるを得なくさせるためです。資料5,6どちらも残酷で選べないという葛藤状態に陥ることを意図しています。そのため、生徒たちが問6に対して安易にどっちもどっちとならないように、他者と話し合いながら悩み続けることが大事だと考えています。この問6を設定することよって、最後のMQ「痛みの歴史を消し去ること、痛みの悪循環を断ち切ることは本当に良いことなのか?過去の痛みを抱えたまま共に生きることはできないのか?」に対して、生徒たちがより考えるべきものであると思えるようになると考えています。

      なお、この問いの設定は当時、野々山先生にアドバイスをもらいながらつくっております。
      以上です。

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      2025/09/06 at 1:19 pm
      • 投稿者:近藤 優樹  憎しみの悪循環の乗り越えることの難しさ(パレスチナ問題)

        問6も含めて発問の意図をご教示いただきありがとうございました。
        生徒たちが情意面を働かせるための発問や、MQへの切実性を持たせるためとのこと、承知しました。
        私がこの教材を拝見して、どっちもどっちとなってしまうのではないか、ということを考えたのは、問5,6を、被害の規模や性格を、分析させる(その手段として、両者の被害を比較するような問い方としている)ものと解釈しており、情意面を働かせることをねらった発問だと理解することができていなかったからだと思います。

        私が当初、上記のような解釈に至ったのは、問1~4及び関連の諸資料が国民国家概念の学びを踏まえ、問5,6で国民国家やナショナリズムといった概念的知識を活用して現在生じている戦争や暴力の構造を生徒に分析させることをねらった教材だと理解したからだと思います。ご説明いただいたことで、教材について理解を深めることができました。ありがとうございました。

        また、『現代につなぐ歴史授業デザイン』の寺前先生のご論稿、拝読いたしました。寺前先生が、世界史の学習対象である他者やその価値観を、距離が「遠い」ものとして捉えることを大事にされていること、及びそれを踏まえつつ生徒と学習対象である他者との接点や共通点を見出すことも同時に意識されていることが伝わってくる内容で、大変興味深く読ませていただきました。
        私自身も、世界史の学習対象を、異質な他者として捉え、複雑な存在を複雑なものとして捉える姿勢を生徒に養ってほしいということは譲れないと考えているため、強く共感する部分が多くある内容でした。また、生徒と他者との接点や共通点を見出すということは、私はこれまで意識することができていなかった部分であるため、寺前先生がなさっている工夫から新たな視点を獲得することができました。ありがとうございます。

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        2025/09/07 at 12:01 am
        • 投稿者:寺前 駿  憎しみの悪循環の乗り越えることの難しさ(パレスチナ問題)

          コメントありがとうございます!
          また、『現代につなぐ歴史授業デザイン』の私の論稿もお読みいただきありがとうございます。
          Barton,Ho “Curriculum for Justice and Harmony”の「遠い声(distant voices)」が今特に関心を持っていることで、その考えを歴史の場合に応用すればどうなるかと考えてその論稿をつくってもいます。「私」が理解することのできない他者といかに違いをわかろうとするか、どうすれば良いのかについて今も考えています。
          以上のことは、同書の稲垣論稿(ポピュリスティックなレリバンス論)や徳原論稿(歴史教員としてのポジショナリティ)とも近いものがあると私は勝手に思っています。

          余談ですが、Barton,Ho “Curriculum for Justice and Harmony”のそのほかの内容についても、私は取り入れていきたいと思っています。全ての場面において正義の考え方ではだめで、調和の視点を取り入れることが大事な場合もある。もちろん、人の命が関わるような場面では調和だと追いつかないときもありますが。

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          2025/09/11 at 9:43 pm
  • 投稿者:近藤 優樹  単元:評価の相違はなぜ生まれるのだろう?

     野々山先生
     
    近藤です。いつもお世話になっております。教材と報告資料の方、興味深く拝見しました。
    「近世」という時代の特質を、近代的側面と中世的側面から考察したり、過去を評価したりする際の分析視点として、「文明」/「野蛮」といった歴史総合や世界史探究の他の時代や地域の学習で登場する概念が重要な意味をもつのではないかと考えました。主観的な感想になりますが、野々山先生の資料や発問を拝見すると、文明や野蛮といった価値観に関係する概念を、ヨーロッパ近世を分析する視点として位置づけられたというように私は理解しました。
     
    上記の点に関して、一点質問させていただきたく思います。
    「文明」/「野蛮」といった教材中にたびたび登場する概念が、各授業の終結部の問いや、単元のまとめのパフォーマンス課題等の生徒の記述でどのように反映されたのか、ご教示いただけますと幸いです。とりわけ、「No.54 啓蒙思想は、価値観を変えたのか!?」のところでは、終結部の設問からも、生徒は文明/野蛮といった価値観からルネサンス以後の変容を評価することが求められたのではないかと思います。この点について、教えていただけますと幸いです。どうかよろしくお願いいたします。

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    2025/09/11 at 12:10 pm
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