• 投稿者:中村 翼  東アジア古代国家の形成

    今更のコメントで失礼します。 授業のねらいに共感します。古い時代の方がなにかとシンプルなので、そこでしっかりと国際的視野を鍛える練習・習慣づけをしておくことは重要と思います。以下、些細なところもありますが、コメントします。 ・『漢書地理志』は、『漢書』地理志とする方がよいです。 ・金印の使い方の図解は重要です。ただし、この福岡市博物館の説明は、《文字文化が定着していない(つまり文書の交換をしない)日本で、どうやって(本来、文書に捺すはずの)印を使うの?》という疑問に答えたものかと思います。したがって、「あなたの国が奴国から手紙を受け取ったときに・・・」というのは、状況設定として問題があります(もっとも、中国をバックにしている、「グローバル」な政権として自国の権威を誇示するというのが想定回答と考えられますが、その点は重要な問いかけと思います)。 ・隋との推古朝の関係ですが、最初の問いかけで、倭国の自立性を(通念通り?)前面に出すと、先生がサジェストしている中国文明の受容(官位制・法文化・宗教)が後継に退くように思います。私は、あくまでも推古朝と隋の関係は、《中国に学びに行く倭国》を基本線として、強調しています(非礼な文書を送ったことをことさら重視しない)。このあたりはどうでしょうか? ・白村江の戦いをめぐる国際関係を(結果を知る立場から?)考察する試みも興味深く思いました。ただし、一点。「もしあなたたちがヤマト政権の有力者であったなら、倭国の独立を保つためにどのように立ち回りますか?」という問いかけは、「倭国の独立を保つ」まで出してしまうと、生徒の思考を縛るかも知れません。白村江の戦いに倭国が参戦した理由を、自衛(ないし独立を保つため)とみるか、朝鮮半島権益拡張のためとみるかも大きく分かれる点だと考えるからです(もちろん、両者を折衷したり、第三、第四のの視点もあるでしょう)。 的外れの指摘もあろうかと思います。あくまで一見解として、ご参考になれば幸いです。
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    2023/06/21 at 2:33 pm
    • 投稿者:高瀬邦彦  東アジア古代国家の形成

      中村先生

      貴重なご意見ありがとうございます。

      ・『漢書地理志』は、『漢書』地理志とする方がよいです。
      ⇒ここは教員になってから何回か変更を加えている箇所でして、もともとは『漢書』地理志と表記していたのですが、書籍などでは『漢書〇〇志』『漢書〇〇伝』みたいになっていることも多いので、最近ではまとめてしまっています。
      ただ、『漢書』の中の地理志という部分なので、正確には『漢書』地理志にした方が良いというのは理解しています。

      ・金印の使い方
      ご指摘ありがとうございます。封泥を図で説明してくれている他の資料があればよいのですが・・・。
      ちなみに、この部分で私が生徒に疑問点について話をするのですが、中村先生がご存じのことがあればご教授いただければ幸いです。
      《文字文化が定着していない(つまり文書の交換をしない)日本で、どうやって(本来、文書に捺すはずの)印を使うの?》
      弥生時代のまとまった文書は見つかっていないので、歴史学的には弥生時代の日本には「文字文化が定着していない」ということになるのですが、個人的に以下の疑問があります。
      ①弥生時代に日本列島にやってきた人々は、稲作や金属器などは持ち込んだのに、漢字は持ち込まなかったのか?漢字の成立は紀元前10世紀頃なので、前漢や後漢、魏の時代の日本列島に持ち込まれて使われていてもおかしくないように思います。
      ②文字文化が定着していなければ「漢委奴国王」の金印も相手国が読めない可能性があり、意味がないのではないか?
      ③手紙などが書けないのに、中国王朝との交渉は可能だったのか?
      稚拙な質問で申し訳ございません。

      隋と推古朝の関係
      この教材だけでは説明足らずであり、申し訳ございません。
      非礼な文書を送ったことをことさら重視しない、というのは私も同じ考えです。
      私は隋への国書を「中華思想の導入」という観点でとらえています。倭国が朝鮮半島諸国との交渉を「三韓の貢」とみなし、朝貢を受ける中華を自負して冊封体制から脱しようとしていた、と生徒には説明しています。加えて、実際は遣隋使・遣唐使ともに朝貢や留学を兼ねており、日本は(表向き)自立性を主張しつつも、実際は中国に朝貢して学ぶ立場であった、という説明をしています(奈良時代の新羅との元日朝賀の争いなどの話もつなげていきます)。

      ・白村江の戦いをめぐる国際関係
      これはなるほど、と思いました。ありがとうございます。
      唐の出現後、高句麗では642年に大臣の泉蓋蘇文が国王を廃して実権を掌握し、新羅では647年に唐が廃位を求めた女王に対して国内で反乱が起こり、百済では643年に王族の義慈王がクーデタを起こしたわけですが、これらを「唐に対抗するために権力を集中するための動き」と捉え、乙巳の変もその一連の動きの一部であった、と説明しています(プリントの「遣隋使から帰国した南淵請安の塾に通っていた中大兄皇子と中臣鎌足が大陸情勢を学び」という部分との関連)。
      そのため、白村江の戦いでも「唐から東アジアへの圧力をどう乗り越えるか」という観点で見てしまったため、「独立」という点に至っています。
      他にも様々な歴史のIF的思考から始まる活動(私は歴史推論と呼んでいます)をしていますが、それらに活かしていきたいと思います。

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      2023/06/22 at 10:14 pm
      • 投稿者:中村 翼  東アジア古代国家の形成

        中村です。頂戴したご質問への回答をします。
        以下の見解は、市大樹「日本列島における漢字使用の始まりと東アジア」『グローバルヒストリーから考える新しい大学歴史教育』に依っています。詳細はこちらを御覧いただけるとよいかと思います。

        ①弥生時代に日本列島にやってきた人々は、稲作や金属器などは持ち込んだのに、漢字は持ち込まなかったのか?漢字の成立は紀元前10世紀頃なので、前漢や後漢、魏の時代の日本列島に持ち込まれて使われていてもおかしくないように思います。

        →「文字」の書かれた弥生土器の出土例があります。ただし「文章」ではなく、「(不思議な呪力を持つ)記号」として記されたと考えた方が合理的とされます。下の②についても、同様の観点から説明できると思います。

        ②文字文化が定着していなければ「漢委奴国王」の金印も相手国が読めない可能性があり、意味がないのではないか?

        ③手紙などが書けないのに、中国王朝との交渉は可能だったのか?

        →②・③はまとめてお答えします。まず、③については、たとえば卑弥呼の場合、上表文の作成を倭国側ではなく、外交を仲介した帯方郡が行ったのではないかという説があります。実際、後の時代には漢文作成能力(=中国のルールに基づいた漢文なので相当高度なスキル)を十分にもたない各国・地域の使者がもたらした文書を、中国の当局がリライトして、立派な上表文に書き換える(→さらには、貿易目的の使者を立派な朝貢使に仕立て直す)こともあり(最近では、『アジア遊学277 宋代とは何か』に気鋭の学振PDの遠藤総史さんが宋代の例を紹介しています)、この仮説は説得力があるものと考えています。また、そうでない場合でも、倭国内で外交文書が書けたのはごく一握りの渡来系の人々であり、②とも関わって、倭国内の交渉は、文字よりは口頭(使者に話させる)でなされたとみるのが穏当だと思われます(5世紀には一定の交渉がなされたが、鉄剣に彫るといった行為に象徴されるように記念的な要素が顕著であり、文字使用は相当に特殊とみるべきで、普及は7世紀頃と考えられる=この頃には木簡が普及し、行政に使用されている)。

        以上となります。文章が不躾なものになっていないか、とても心配なのですが、とりいそぎ、お答え致します。

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        2023/06/23 at 11:23 am
  • 投稿者:中村 翼  国風文化

    大変アカデミックな内容で、挙げられている資料など、苦労されたのではないかと拝察します。
    平安時代の日中関係については論文も書いたことがあり(https://hdl.handle.net/11094/61303)、平安時代の地方支配と国風文化、対外関係は相互に結びつけないと逆に教科書記述の理解が難しくなり、多くの生徒がここでドロップアウトするおそれがあると考えています。
    具体的な実践はこの教材共有サイトにも挙げている「日本史概論」の関連項目を御覧いただけると幸いです。

    先生の授業に関して、①学説史の流れを認識しながら、②それぞれの根拠をおさえていくというスタイルは、ことに「国風文化」に関しては有益と思います。
    その場合、提示されたA)「国風文化」は閉鎖的な文化ではなく、東アジアの影響を受け様々なものが移り変わる時代、B)やっぱり閉鎖的な時代、という選択肢のうち、Bが旧説回帰ではないことをしっかりと説明する必要があり、そこが難しさでしょうか。
    最近の論調も一見すると、B(閉鎖的)と読めるかも知れませんが、あくまでも唐文化はもちろん宋文化の影響も受けていることを前提にして、どのあたりがどう影響をうけているのか、いないのかを追究し、日本の国際的位置(政治的・文化的)をとらえようとしていると理解できます。
    今回の資料では、提示された資料と学説とのリンクが(おそらく口頭で補っているのでしょうが)十分には見えにくいので、改善点があるとすれば、その点にあろうかと思います。

    また、遣唐使以後の貿易活動については、文字資料では伝わりにくいかもしれません(どうしても統制する方向の資料になる上、なかなか難しい漢文資料ですので・・・)。このあたりは、教科書でも紹介されている(出版社によって軽重はありますが)、博多の状況を紹介するのがよいと思います。

    なお、朝鮮観については、最近、渡邊誠『王朝貴族と外交』(http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b618489.html)が上梓されました。大いに参考になるのではと思います。

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    2023/06/21 at 3:57 pm
  • 投稿者:中村 翼  平氏政権の誕生と武士の政治進出-鎌倉時代で力を持っていた者はだれか?-

    平家と日宋貿易に関して、コンパクトかつ内容の濃い資料であると受けとめました。
    また、修学旅行とリンクさせて学びを深めるというのも、生徒にとって良い経験であると思います。

    ただし、私自身は、平家が大輪田泊を拠点に日宋貿易に関わり、経済基盤にしたという理解には懐疑的です。

    その観点からすれば、①平家の経済基盤は、資料にもある知行国と荘園に求める方が無難であるし、反平家の機運も、知行国・荘園をめぐる権益をめぐって起こっていることと整合的かと思います。

    ②日宋貿易の基幹線は、遣唐使以後から一貫して〈博多―(東シナ海)―寧波〉においた方が、戦国時代の〈南九州など九州各地―(東シナ海/南シナ海)―中国〔密貿易拠点〕・東南アジア〉の対比が生きています(→なぜ種子島や鹿児島が鉄砲・キリスト教伝来で重要か、など)。また、教科書で紹介される博多の状況とも整合的だと思います。

    ③大輪田泊は、日宋貿易のルートというよりは、博多~各地の地方都市~京都をつなぐ瀬戸内海流通の動脈として理解した方が、平家が西国を拠点に生き延びようとした戦略をよりうまく説明できると思います(西国は、貿易以上に国内流通・生産のレベルで豊かであった)。厳島神社も貿易と言うよりは(それもあるかもしれませんが)、瀬戸内海流通の拠点として考えればよいと思います。

    もちろん、国際貿易と国内通流は択一的な問題ではないのですが、貿易に傾きすぎるとかえって平家の基盤を矮小化するように思え、以上のように考えることで、西国と平家の関係性がよりクリアになるのではと考える次第で、コメントさせていただきました。

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    2023/06/21 at 4:13 pm
    • 投稿者:阿久津 祐一  平氏政権の誕生と武士の政治進出-鎌倉時代で力を持っていた者はだれか?-

      中村先生 コメントありがとうございました。先生のご指摘は西日本と東アジアの交流と平氏権力の拡大と衰退をいかに単元化しうるかということにつながるものと理解しました。

      大輪田泊に関してのご指摘は日本史探究のWGでも懸案事項として表出されたものでした。私の授業案では博多の存在を軽視していたことは否めません。「日本史探究」において東アジア交易の実態に迫る単元をどこにすえつけて展開することが単元設計上効果的なのか改めて考える機会となりました。
      日本史探究の教科書では厳島神社を瀬戸内海流通の拠点とする視点はほとんど掲載されていないと思います。厳島神社が担っていた複数の役割や東アジアの結節点である博多、これらの地域を題材にして政治(平氏政権)と経済(知行国・荘園制を含む)を結び付けた授業を今後作成していきたいと思いました。
      また、本校の生徒にとって“博多”という地はイメージしにくい地です(海なし県ですとなおさらです。)博多をテーマにして中世を貫く単元も作れると感じました。
      ご助言ありがとうございました。

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      2023/06/25 at 10:34 pm
      • 投稿者:中村 翼  平氏政権の誕生と武士の政治進出-鎌倉時代で力を持っていた者はだれか?-

        中村です。近年は、アジア交流史が重視されているので、博多に注目する教科書が増えてきたようですが(ある世界史探究の教科書で、鎌倉から四国の南、南九州を経由して中国方面に伸びる不思議な航路が書かれていたことには驚きましたが・・・)、「本校の生徒にとって“博多”という地はイメージしにくい地です」というのは、忘れていたポイントでした。
        私自身、千葉県で高校まで過ごしてきたので、アジアとの窓口としての博多のイメージは希薄で、大学での学びで強く意識するようになった次第です。生徒の持っている認識などを考慮した教材作りは、全国一律のオンデマンド授業ではなかなか難しい、その学校の教師のなせる技かも知れません。今度とも、ご教示下さい。

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        2023/06/29 at 1:10 pm
  • 投稿者:中村 翼  執権による政治-鎌倉時代で力を持っていた者はだれか?―

    京都教育大、中村翼です。
    飢餓ゼロがSDGsの一つになっているように、極めて現代的な課題に即した有意義な授業実践であると考えました。
    『方丈記』の五大災厄は歴史資料としてもよく利用されますが、古典学習と歴史学習の架橋という意味でも意義深い取り組みであると思います(あとは、飢饉と都市の関係などは、地理でしょうか)。

    全体像に関わるものと言うよりは、些細な点ですが、博士論文のテーマが鎌倉時代で、友人が平家政権論を研究しているもので、コメントをしておきます。

    Q4の想定解答に、飢饉の対応策(というか日常の五穀豊穣)として、古代なら加持祈祷というものがあります。この書き方だと、中世は違うという誤解を招くかも知れません。中世(とくに院政・鎌倉時代)に天台真言の旧仏教(顕密仏教)が最盛期を迎え、モンゴル襲来時に各地の寺社が異国降伏祈祷に熱をあげたように、困ったときの仏神頼みは古代に限るものではありません(むしろ中世の方が熱狂的)。関連して、異国降伏祈祷には幕府も積極的だったように(この点は、教科書ではあまり強調されませんが)、鎌倉幕府の「徳政」(この場合は北条泰時の政治)と古代の祈祷を対置するのも問題です。事実、蒙古襲来後の「徳政」は寺社に(御家人を犠牲にしてでも)「恩賞」を与えることでもありました(より詳しくは、海津一朗『〈新〉神風と悪党の世紀』などを参照)。

    Q7の人身売買と飢饉の関係性について、「なぜそのような命令を出したのか?(=なぜ人身売買が飢饉のときに限って許されたのか?)」という問いかけの答えが、「人身売買が出来なければさらに死者が増えると考えられる」とあったので、ここをどう説明されたのかが気になります。当時の飢饉や社会のあり方、人身売買を考える上でキイとなる問いかけだと思うからです。なお、この点については平雅行『歴史のなかに見る親鸞』の「東国の伝道」という章に、寛喜の飢饉と親鸞の思想の関係を含め、壮絶な解説があります。ぜひ、ご一読いただけるとよいかと思います。同著『〈日本史リブレット人〉法然』も単なる人物伝にくわえ、中世仏教の全般の解説を含みます。あわせてお薦めしておきます。

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    2023/06/21 at 5:51 pm
    • 投稿者:阿久津 祐一  執権による政治-鎌倉時代で力を持っていた者はだれか?―

      中村先生
       コメント及び参考図書のご紹介ありがとうございます。まず、この教材案では実践をしておりませんので、今回は想定されるコメントを掲載したものでございますのでご了承ください。
       Q4では既習事項を踏まえ生徒が発言(記述)しそうな内容を掲載しました。祈禱に関しては、奈良時代の天然痘をはじめとした疫病が広がった時代と鎌倉時代とを比較することで仏教に対する考え方や「祈る」という行為について生徒に考えさせる授業が構想できそうです。近世及び現在のコロナのアマビエ信仰などにも通ずるところがあるかと思いますので、今後の教材案作成の1つのテーマになりえそうです。ただ、古代の祈りと中世における祈りと現在の祈りを同一視することは危険だと思いますので、何かよい観点があればお教えいただけると幸いです。
       Q7については、現在の世界では人身売買は絶対悪として見られる風潮が強いかと思います(あくまで私見ですが)。現在の生徒が持っている価値観を揺さぶるためQ7を設定した次第です。生徒のもっている価値観を揺さぶり、厳しい社会状況であったことを理解させるための文章資料と考え配置しました。

      中村先生、コメントありがとうございました。

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      2023/06/25 at 10:36 pm
      • 投稿者:中村 翼  執権による政治-鎌倉時代で力を持っていた者はだれか?―

        中村です。
        時代ごとの「祈り」の持つ意味の違いは、なかなかやっかいな問題だと思いますが(現代でも人によって様々ですし)、宗教勢力の持つ社会的な機能の多様性と大きさ(一般的には、中世に肥大化し、近世に世俗するイメージでしょうか)をしっかりおさえながら説明することが、「観点」という意味では重要だと思います。
        人身売買のことは、日本中世において〈当時において生きていくためのやむを得ない選択〉という側面が確かにありますが、「自助」のウェイトが大きい時代はともかく、現代は先生のおっしゃる通り、それでやむなしとするわけにはいかないので、「公共」で習う社会保障制度の問題(とくに公的扶助・社会福祉)との橋渡しが欠かせないところでしょうか。

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        2023/06/29 at 1:02 pm
        • 投稿者:阿久津 祐一  執権による政治-鎌倉時代で力を持っていた者はだれか?―

          中村先生
          日本史探究の科目テーマとなっている、”祈り”という「概念」や自助等の公民的内容との科目間の立てつけが実践していて難しいなと考えております。抽象概念をいかに生徒の知識理解につなげていくのが今後の課題であり、先生からいただいたご助言を踏まえて再考していかなければならないなと感じています。

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          2023/07/03 at 9:43 pm
  • 投稿者:横井永孚  東アジア古代国家の形成

    今年度から始まった日本史探究の序盤を進める上で、大変参考にさせていただいております。全て手探りであるため、先生が指し示してくださる教材に大いに助けられました。

    今年度は進路先がほとんど就職や専門学校のクラスで授業を行っておりますが、このクラスにおいては「倭国の独立」というゴールを示した時に議論が活発化しました。中村先生のご指摘もその通りでして、クラスによってここは“どこまで情報を提示するか?”という点について融通が利かせられるのかもしれません(外交政策についての意見ばかりになってしまったのは、私の指導の反省点です…)。

    また「蘇我氏を倒して早急に天皇中心の国づくりをしなければならない」という部分に関しては、東アジアの情勢だけでなく、国内における蘇我氏の専横的な振る舞い(馬子の崇峻天皇暗殺、入鹿の山背大兄王暗殺、皇極天皇との愛人問題など…)を、バイアスと承知で提示することで、より天皇中心の国づくりの必要性がイメージしやすいようにしてみました。

    いずれにせよ高瀬先生の教材あっての応用であります。本当にありがとうございます。お恥ずかしい話ではございますが、もしよろしければまた教材をご提示していただけましたら幸いです。

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    2023/06/22 at 6:50 pm
    • 投稿者:高瀬邦彦  東アジア古代国家の形成

      横井先生

      コメントいただきありがとうございます。楽しい授業になったようで、とてもうれしく思います。
      「クラスによってここは“どこまで情報を提示するか?”という点について融通が利かせられるのかもしれません」というのはその通りだと思います。
      今回の白村江の戦いのような活動を他の時代でも組み込んでいるのですが、中村先生のご指摘のようにすると、グループごとに論点を変えることで様々な視点から意見が出て学びが広がるような気もします。

      バイアスと承知で提示すること
      これは歴史という科目を教える中でうまく活用したいですね。
      私の場合だと、ステレオタイプの理解や教科書的な理解を崩すことで生徒の興味関心を引くことも多いです。
      今回の範囲だと、崇仏論争は実は崇峻と穴穂部皇子の継承争いだった、崇峻天皇や山背大兄は王の器ではないとみなされ群臣の協議によって殺された、乙巳の変は蘇我氏中心の国づくりを目指す皇極と、王族中心の国づくりを目指す軽皇子(孝徳)の対立だった、などがあるでしょうか。

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      2023/06/22 at 10:28 pm
  • 投稿者:山田 貴志  国風文化

    中村先生
    コメントをいただきましてありがとうございます。大変参考になりました。特に、旧説回帰にならないようにしないように気をつけなければならないという御指摘は、本当にそのとおりだと思いました。どう工夫するか考えたいと思います。

    また、様々な文献を御紹介いただきありがとうございます。しっかりあたって、さらに授業を深めていきたいと思います。

    なお、先生に記していただいた、①学説史の流れを認識しながら、②それぞれの根拠をおさえていくというスタイルですが、自分の一つの形にできないかと考えています(もちろん毎回ではありませんが)。このスタイルに関しまして、近世でも既に挑戦しています。恥ずかしながら、授業実践として投稿していますので、こちらも御批判いただけると、大変幸いです。

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    2023/06/25 at 1:55 pm
  • 投稿者:堀井 弘一郎  日清戦争(銃後の日本人は、戦争をどう見ていたのか?)

    私には初めて見る史資料が多く、大いに参考になりました。ありがとうございました。

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    2023/07/01 at 5:42 pm
  • 投稿者:堀井 弘一郎  仏教は世界宗教になったのに、なぜ南アジアで浸透しなかったのだろう?

    私自身疑問に思っていることに答えて頂いた教材で、大変有益でした。ありがとうございました。

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    2023/07/01 at 5:59 pm
  • 投稿者:三谷 博  日清戦争(銃後の日本人は、戦争をどう見ていたのか?)

    ポイントを突いた教材と思います。二点、追加しますと、1)なぜ日本が「文明」と言えるのかですが、直前に国会を開いて西洋最先端の立憲政を始め、工業も勃興し始めた自負があって、それが朝鮮への「革命の輸出」を促したことを、まず説明しておいた方がよいのではと思います。2)この戦争への熱狂の先頭に小学生がいた(凱旋行進への小旗歓迎)ことも追加すると良いかも知れません(金山泰志「戦争と日本民衆の中国観ー様々のメディアと資料として」、三谷・張・朴編『響き合う東アジア史』東京大学出版会、2019年。金山さんには単著もあります)。

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    2023/07/17 at 11:17 am
    • 投稿者:神永 卓弥  日清戦争(銃後の日本人は、戦争をどう見ていたのか?)

      三谷先生
      補足の情報をいただき、ありがとうございます。小学生の小旗歓迎の話、とても興味深く思いました。次年度の実践に反映させられるか、検討してみます。
      また、朝鮮への「革命の輸出」についても、大単元B⑶の復習を兼ねつつ、近代日本の朝鮮認識を補強することが出来る視点だと感じました。あわせて、次年度の実践に反映させられるか、検討してみようと思います。

      こうして当該分野の第一人者の先生に教材を見ていただき、コメントをいただけるのはとても素晴らしい仕組みですね。関連する文献をご教示いただける点も、非常に有難いことだと感じました。コメント、ありがとうございました。

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      2023/07/17 at 5:34 pm
  • 投稿者:三谷 博  帝国主義(なぜ、植民地の獲得は求められたのか?)

    「帝国主義」は、近代史上の難題ですが、神永先生の教材はよく考え抜かれていると拝見します。その上で、若干の補足を。1)なぜ植民地を獲得しようとしたのか。これは、今の日本人にはなかなか理解が難しいことと思います。より一般化すれば、なぜ人は他人の土地を奪い、他人を支配しようとするのかという問題です。いま、我々がそれを考えないで済んでいるのは、モノやサーヴィスを提供すれば、自らの生活を豊かにできると知っているからだと考えます。植民地を手放した後の日本が戦前よりずっと豊かな社会になった経験がものを言っているのではないでしょうか。それ以前は逆だったし、戦国時代では土地争いれ自体が秩序のルールになっていました。これらや今のロシアとの違いを意識し、その正当化根拠を考えるのは大事なことと考えます。2)その上で、「帝国主義の時代」の特徴を考えると、「強国同士の陣取りゲーム」の発生が重要と思います。教材で教えていただいた福澤の議論はそれを先取している観があります。現地民の意志は無論、そこにどんな資源があるのか、衛生状態は大丈夫か、そんなことはお構いなしに、大国は、隣国に負けまいと、陣取りゲームに突進したのではないでしょうか。蒸気船・鉄道・兵器などのテクノロジーが発達したせいで、「土地」に執着する限り、陣取り競争から逃げられなくなった。そんな印象です。3)最後の資料が語る問題はとても大事と思います。支配された側の記憶がいまの日本が抱える難題の一つとなっているからです。帝国崩壊から約80年、何世代も経ったったいま、この「傷」を考えるだけでことが解決するはずはありませんが、隣国とのもつれを解きほぐすには、まず日本側が20世紀前半にしたことを事実として認めることを出発点とせざるを得ないと考えます。その場合、教科書が書いているのは日本側の行動だけで、相手側のつらい経験は見えません。この教材はそれを可視化するもので、とても有用と思います。無論、その場合、生徒側に山田先生が懸念されるような思い・発言が生ずるはずですが、それに対しては、「君がこのときの朝鮮人や中国人の立場にいたら、どう思うだろうか」と尋ねてはどうでしょうか。「視点の移動」。それは、同じ日本の中であっても、別の時代を理解するのに必要なことですし、歴史教育が生徒に与えうる最大の贈り物の一つではないかと考えます。

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    2023/07/17 at 12:25 pm
    • 投稿者:神永 卓弥  帝国主義(なぜ、植民地の獲得は求められたのか?)

      三谷先生
       こちらにもコメントをいただきまして、ありがとうございます。また、過分なお言葉まで頂戴し、恐悦しております。補足事項の三つ目で指摘されている、支配された側の記憶の問題については、とくに戦後の単元でどれだけ迫れるかが課題だと思っております。
      問題が巨大だからこそ、教材化する行為が問題の矮小化にならぬよう、真摯に向き合わねばなりません。独りでは困難ですから、全国の先生方のお知恵を拝借しながら一つずつ、より良い歴史教育に向けて積み上げていければと考えております。
       今後とも、よろしくお願いいたします。

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      2023/07/17 at 5:44 pm
  • 投稿者:三谷 博  小説「こころ」を通して「明治時代」を読み解く

    三谷博の感想を記します。文学作品に限らず、自伝や記録を授業に使うのは、とても有意義と思います。ただ、「こころ」は、高校時代に読まされて難渋した記憶がありますので、今回はややひるんだのですが、ともかく拝見しました。
    さて、この教材は「先生」の地主や金利生活者としての姿を探り出し、当時の日本の経済・社会格差を考えるよう誘うことに成功していると思います。(ただ、もう少し注釈を。漱石の「学生」は、大学生、それも当時はただ一つしかなかった「帝国大学」の学生を指しています[京都帝大は明治30年創立]。むかし調べたところでは卒業年齢は平均26歳でした。大学卒業までには大変なお金と時間がかかったわけです)。他方、疑問3については、かなり当惑しました。妻に遺書を遺さなかった理由については、「先生」自身が、「妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいて遣りたい」と書いています。小説の肝ながら、怖い話しなので、あまり触れたくありません。
    なお、私が定年後に勤めた大学での経験では、高校卒業までに本を丸々読んだことのある学生は稀でした。その場合、こうした「資料」に接したとき、その文字は人間の生き様を表現しているという想像力がなかなか働かないようです。歴史は特殊な「単語」を憶えるものと思い込んでいて、そこに生きていた人々の生活が思い浮かばない。でも、もしそこに「物語」を見つけるなら、それは深い印象を与え、忘れようとしても忘れられなくなるはずです。
    ご参考までに、そのとき、私が対策として使ったテキストは、福澤諭吉『福翁自伝』(岩波文庫の外に、慶應義塾大学出版会が刊行した註釈付本があり、『新日本古典文学大系』には松沢弘陽先生が詳細・綿密な考証を施した本もある)。もう一つは、山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫)。女子には前者はあまり受けず、後者では何とか幕末の世界に入り込んでもらうことができました。
    ともかく、こうした作品を使った授業が増えるなら、歴史の勉強はとても楽しくなるはずなので、ぜひ続けていただきたいと思います。

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    2023/07/17 at 4:28 pm
    • 投稿者:濱田文  小説「こころ」を通して「明治時代」を読み解く

      三谷 博 先生
       
       貴重なご意見をありがとうございます。三谷先生のお言葉から数多くのご示唆を頂きました。また、今後に向けての大きな励みになりました。
      今回の授業を構想したのは、「こころ」が、今も高校生を惹きつける魅力的な小説であると感じたからです。国語で「こころ」を学習している時期に教室に行くと、生徒たちはこの小説の登場人物や展開についてよく話をしていました。小説のバックグラウンドとなる「明治」という時代をよく知れば、より深く、より楽しく「こころ」を読めるようになり、歴史を学ぶことにももっと関心を持てるのではないか。国語を教える同僚と話をする中で、そう思いました。現代の高校生と近い世代の若者が、100年以上も前の東京で、どう生活していたのか。何を思って生きていたのか。その<物語>を知ることで、歴史の教科書に書かれた「明治」がより鮮明な印象を伴って生徒たちに迫ってくる。三谷先生が言われるように、もしも、そこに<物語>を見つけられれば、「明治」は生徒たちにとって、もはや「遠い昔」ではなくなるのだと思います。
       先生がご指摘下さいましたように、当時の「大学」を現在の「大学」に単純に置き換えることはできず、あくまでも「明治」という時代に即して理解すべきなのだと反省しました。「先生」が入学した当時、大学は一つであったこと、日清戦争の賠償金で京都帝大が創られたことについても補足すべきでした。さらに、資料1―②「上級学校進学の割合(明治時代末期)」についても、先生が入学した時期の十数年後のデータであることを付記すべきだったと気づきました。授業では、「先生」が卒業したと思われる明治31年の東京帝国大学卒業生名簿(国立国会図書館デジタルアーカイブス)も閲覧しましたが、今後、提示する資料を精選したいと思います。その他の点に関しましても、三谷先生から頂いたお言葉をふまえて授業のあり方を見直したいと思います。
       歴史の授業で、いかに生徒の想像力を膨らませられるか。三谷先生から頂いたお言葉やご紹介頂いた参考文献を頼りに授業の改善や工夫をしていきたいと思います。浅学の身ではございますが、今後も引き続きご指導とご鞭撻を賜れれば幸いです。

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      2023/07/19 at 9:59 am
  • 投稿者:三谷 博  近代化とは何か(現代においてアイヌ差別はもうなくなったのか)

    素人なので、参考書の紹介に留めます。ウポポイができる前だったので、その紹介はありませんが、とても丁寧な解説をしています。
    坂田美奈子『先住民アイヌはどんな歴史を歩んできたか』(歴史総合パートナーズ5)清水書院、2018年。
    なお、「近代化」はとても曖昧な概念なので、先生がおっしゃるとおり、それをもっと具体的な産業化・世界市場化や国民国家化・民主化、あるいは科学技術結合などに分解すると、汎用性が高まるように思います。これを「市民革命」から始めると、中国やロシアが歴史から消えてしまいますが、ここまで分解するとちゃんと共通性も出てきて、比較可能となるいように思います。

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    2023/07/18 at 11:00 am
  • 投稿者:三谷 博  「近代化」できないアジア諸国は「劣った国」といえるのだろうか

    三谷です。この三国の比較はとても意義深いものと考えます。ただ、おっしゃるとおり、とても難しいですね。資料を拝見した限り、「近代化」でなく、「立憲主義」の導入に絞ると、違いがくっきりみえると思います。ずばり、三国の君主が「君権の制限」を受け入れたか否かが分かれ目になったようです。日本の場合、たまたま室町以来、天皇が決定権を持たないという伝統があったので、伊藤のような発言も可能となったのでした。お隣の朝鮮の場合、それができなかったのが致命的だったようです(森万佑子『韓国併合』中公新書)。
    この軌道の相違は今でも大きな影響を遺していて、例えば中国で政治的自由が定着する可能性はとても小さいように思います(かつて私はそれを期待して編著を編んだこともあったのですが)。この差異を、成功・失敗という枠で捉えると、生徒に隣国への偏見を押しつけることになって、確かにまずい。しかし、この差異自体は今の世界にとって、けっしてゆるがせにできないことと考えます。生徒に事実を見せ、決まった結論に誘導するのではなくて、いろいろ考えてもらうなら、意義深い授業になるように思います。

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    2023/07/18 at 11:20 am
  • 投稿者:三谷 博  なぜ日本は日清戦争を起こし、アジア諸国を領有する植民地帝国となったのか。

    三谷です。この分野は素人ですが、少しコメントします。日清対立の焦点は朝鮮にありましたが、1880年代の日本は二度の事変に拘わらず、不関与政策をとりました。山県の演説はその最終局面で行われています。他方、同時代の陸軍幹部(川上操六・桂太郎)は対清戦争の準備を進めており、伊藤内閣を無理矢理戦争に追い込んだのでした(高橋秀直)。ただ、伊藤や井上馨も、朝鮮に「自強」を促すため改革を強制するという政策をとっていました。維新で成功したと自負する「革命の輸出」を試みたわけです。清朝側の動きも重要で、袁世凱の駐在とともに「属国・自主」を否定するようになりました。日・清双方で、朝鮮で衝突するコースを選んでいったように見えます。
    これらの事情は、以前の編著『大人のための近現代史』東京大学出版会に、専門家に書いてもらいました。また、次の本は、朝鮮側の史料にもとづいて丁寧な説明をしていて、このあたりの知識を一新した観があります。森万佑子『韓国併合』中公新書。

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    2023/07/18 at 11:41 am
  • 投稿者:濵野 優貴  当時肯定的に評価されることもあった「大日本帝国憲法」を私たちはどう感じる?

    お世話になっております。滋賀県立彦根東高等学校の濵野です。
    「プラスαで理解したい人,読んでみてください」のところに掲載されている文章の出典を教えていただけますか?

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    2023/07/27 at 2:29 pm
  • 投稿者:濵野 優貴  当時肯定的に評価されることもあった「大日本帝国憲法」を私たちはどう感じる?

    上記、牧原憲夫(2006)『シリーズ日本近現代史② 民権と憲法』(岩波新書)P.192 と判明しました。

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    2023/07/27 at 4:56 pm
  • 投稿者:徳原 拓哉  小説「こころ」を通して「明治時代」を読み解く

    濱田文 先生

    いつもお世話になっております。時代にいかに近接していくのかという意味において、小説・文学を取り上げながら緻密に教材を構築されていてとても刺激をいただきます。いつも勉強になります。
    今回の教材について、「こころ」を取り上げていらっしゃったので、国語科等との教科連携や、ないしこの教材で学んだ生徒たちが国語の授業でどんなことを感じるのかな、という点にとても関心を持ちました。

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    2023/07/29 at 9:46 am
    • 投稿者:濱田文  小説「こころ」を通して「明治時代」を読み解く

      徳原拓哉 先生

       こちらこそ、いつもお世話になっております。私の拙い実践に目を通して下さり、感謝申し上げます。また、貴重なコメントを頂き、ありがとうございます。
       国語の授業と関連させた歴史学習について、生徒たちがどのように感じたか。授業後の生徒たちの感想をいくつかご紹介しますね。

      〇夏目漱石の描く「こころ」には現代の私たちには理解しにくいような点がいくつかあったが、今回の授業を通して、理解しにくい点というのは、先生やKが生きた明治という時代を忠実に表現していたからだとわかった。疑問1や2は特に時代の違いが感じられ、「こころ」という文学作品ではあるけれど、読み方を少し変えると明治について知れる教科書みたいなものになり、文学作品はそのような価値の一つでもあると思った。
       
      〇現代文の授業では時代背景まで学ばなかったし、なぜお金に困っていないかと疑問に思った事がなかったからみんなとグループワークができてよかった。教科書には少ししか出なかった「私」の立ち位置も最後の問で確認することができた。「私」へは、過去と無関係で先生を慕っているからこそ同じ道を歩まないように未来へ残したメッセージだと考えた。今までよりも更に、詳しい展開や時代背景を知りたくなった。

      〇物語でありながらも、当時の日本の法律のレールの上で作られていた。つまり歴史を知っていると、多角的な目線から(「こころ」という小説を)味わうことができより楽しめるようになると感じた。(世界史をやっていたから「ソクラテスの弁明」が面白いのと同じように)
       
      〇現代文の授業で疑問に思っていたことが沢山あったので知ることができてよかった。しかし、先生の心情や事情ばかりだったので、お嬢さんが結婚することや先生が自殺したことについてどう思っていたのかとても気になった。若い友人の私が自殺することについて、どう思っていたのかとても気になった。先生は、Kの死に対して罪悪感を感じていて、Kが死んだその時からずっと自分も死ぬ機会を待っていたかのように思えた。
       

      今週末の「青少年からみた歴史学習メディアとしての漫画と教育実践」のご講演も楽しみにしております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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      2023/08/01 at 1:05 pm
  • 投稿者:三谷 博  02_「江戸時代の日本は、閉塞的で遅れていた」という言説は、妥当か?

    三谷 博(もと東大教養学部)です。いくつも重要な問題を扱う授業案がアップされました。とりあえず、私の専門に近いものから意見を申し上げます。前もって申し上げると、歴史総合の抽象レヴェルは、我々研究者が史料に即して書く論文をはるかに越えたものがあるので、以下に記す意見も、下手をすると「見解の相違に過ぎない」となりかねません。他方、研究の学界でいま定説と信じられているものも、いつ覆るか分からないの研究世界jの現実で、あまり頼りにはなりません。
    その上で申し上げると、教案の内容と趣旨とがかなりずれているように思います。内容は近世初期の農業発展はその通りで、教育の普及も19世紀のこととすれば妥当と思います。しかし、「江戸時代の日本は、閉塞的で遅れていた」という言説は、妥当か?」という課題設定は適切でしょうか。「遅れていた近世日本」という解釈は、いわゆる戦後、今から70年ほど前のものです。それが今なお常識として生きているとすると驚くべきことではないでしょうか。ただ、それ以上に問題なのは、どうして、ある社会が〈まるごと〉「進んでいるか、遅れているか」が大事なのでしょう。例えば、今の中国は経済的には大いに発展していますが、政治的自由は皆無に近くなりつつある。基準ごとにそれぞれの社会の位置は違って見えるはずです。他方、19世紀の半ばをみると、イギリスを先頭に欧米社会は科学技術を「体化」し、他の地域を置き去りにし始めました。ポメランツが書いたように、18世紀の半ばまで、中国の長江流域や日本列島は西欧とあまり違わない経済水準にあったものの、19世紀には欧米のスパートによって一旦は置き去りにされたのです。この激変の姿は、20世紀の後半に日本が「追いつき、追い越せ」とスパートした後、その末には韓国・中国が同じ努力を始め、いまや日本をいろんな面で追い抜いたことと似ています。単に、「進んでいるか、遅れているか」を語るのは、まずい。それぞれの国が、「いま吾が国に必要なことは何か」、それにいつ気づいて改革の努力を始めたかが、決定的に重要だったのではないでしょうか。
    私見をあえて率直に申し上げました。先生の問題提起はいずれも重要で、先生方の間で多くの議論を巻き起こすと予想します。歴史研究者の立場から、自身の見解と最近の学界の傾向をもとに、忌憚ない意見を申し上げました。失礼の段、ご海容を。

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    2023/07/31 at 9:50 pm
    • 投稿者:濵野 優貴  02_「江戸時代の日本は、閉塞的で遅れていた」という言説は、妥当か?

      コメントありがとうございます。

      >「遅れていた近世日本」という解釈は、いわゆる戦後、今から70年ほど前のものです。それが今なお常識として生きているとすると驚くべきことではないでしょうか。

      だとすれば、驚くべきことに、生徒たちの多くはナチュラルに「遅れていた近世日本」という解釈を素朴概念として持っています。
      閉鎖的で他の国のことを知らず、技術的・文化的にも遅れていたし、国内の統治体制も農民は虐げられ、飢餓で苦しんでいた、といったイメージは大変強固なものです。
      もちろん、高校で日本史など学ぶとこれが変わっていくこともありますが、個別の暗記に必死な場合、「え? でも五街道があるよね」とか「寺子屋はどうだろう?」と言われると「確かに」となる一方で、自分のイメージとそれらが結びつかず、「ともかく明治維新まで日本は遅れていて、閉鎖的だった」と結論付けていることはよくあります。

      この授業では、あえて極端な(と言いつつ、なんだかんだ多くの生徒が漠然と持っている)イメージを提示し、それを吟味する過程で、知識の定着と以下に述べる歴史を学ぶうえでの姿勢(要は見方考え方)を育むことを意図したものです。

      育みたい姿勢は、たとえば「そもそも全般的に遅れている/進んでいると判定するのは無理があるのではないか?」「視点の置き方(注目する分野、現在を基準にするのか?など)でも変わりそう」「他の国のことを知らないのに「遅れているかどうか?」は相対的なものだから分からないのでは」「提示される史資料によっても変わりそう」といった批判的思考です。

      この授業では「歴史の扉」も意識した旨を書きましたが、それはこの点についてです。
      特に知識構成型ジグソー法では、どうしても史資料の選定と提示、その読み解きの視点の設定は、教員側が担うこととなります。だからこそ、初期の時点でこうした批判的思考を念頭に置いてほしいと思っています。

      実際に授業では上に挙げたような指摘が起こり、これをあえて全体に取り上げて「鋭い! その視点を持ちながら、この後の授業をやっていけるといいよね」と確認しました。

      長くなりましたが、あくまでも「歴史学として評価の結論を出す」研究活動ではなく、「歴史を学ぶうえでの見方考え方を身につける」高校の歴史学習の教材であるという点を、強調しておきたいと思います。

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      2023/08/01 at 6:55 pm
      • 投稿者:三谷 博  02_「江戸時代の日本は、閉塞的で遅れていた」という言説は、妥当か?

        真摯なお答えをいただき、ありがとうございました。生徒を批判的思考に導くきっかけを与えようとのご趣旨、よく分かりました。
        それにしても、江戸時代のイメージがこれほど固定されて語られてきたとは驚きです。中学校の教育が更新されていないとすれば、どうしたら良いのでしょう。高校から変えるのが手っ取り早いのは確かですが。
        他方、江戸時代の閉鎖性は、最近数十年の学説と異なり、私はかなり深刻な事実と考えます。「鎖国」は、これまた、「閉じていたのか、開いていたのか」の二項対立で語られる傾向があったのですが、当時の国境通過は、モノと情報は可能だが、人は不可能という状態でした。これは実は、最近、人類のほとんどが経験したことです。新コロナ禍のもと、経済は国境閉鎖で決定的な打撃を受けずに済みましたが、人の往来は強く制限されました。いまの人々は近世の「鎖国」がどんなものだったか、よく理解できるようになっているはずです。多くの人は国境を往来ができないことを何とも思っていませんでしたが、一部の知識人は強烈な不満を持ちながら口外はできませんでした。それが、ペリー来航を機として「爆発」し、激変をもたらしたのです。とはいえ、この二百年以上の閉鎖経験は、未だに日本人の中に深い根を下ろしていて、「日本は世界の外にある」という思い込みを維持しているように思います。最近、話題になった入管問題もその断面の一つではないでしょうか。
        先生の提起された問題は、いずれも深い、価値判断に関わるもので、容易にコメントできるものではありません。少しずつ、時間をかけ、ある程度自信があるものから書き込んでゆきたいと存じます。よろしく

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        2023/08/03 at 5:12 pm
        • 投稿者:濵野 優貴  02_「江戸時代の日本は、閉塞的で遅れていた」という言説は、妥当か?

          >未だに日本人の中に深い根を下ろしていて、「日本は世界の外にある」という思い込みを維持しているように思います。

          全くの同意見です。
          そもそもの国民国家を単位として語ること自体への違和感は、いったんおいておくとしても、
          日本が国際社会に貢献できること、日本が責任を果たすべきことを含めて、「世界の中に日本がある」「世界の中で我々は生きている」という感覚をもって、前向きに現在を考えることができたらと思っています。そういう意味では、歴史総合が最後に「グローバル化と私たち」から現代的な諸課題の考察・構想へと結んでいるのは、担当する教員がいかにその場面を効果的に設計するか?を問われているように思えてなりません。

          昨年度、「1945年8月15日をもって「戦後」が始まったととらえているけど、"元・日本"の朝鮮半島や台湾や東南アジアの「戦後」は「戦後」と言えるのか?」といったテーマで授業を行いました。これもある意味で、三谷さんのご指摘の"思い込み"と絡んでいることかもしれません。

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          2023/08/03 at 8:21 pm
          • 投稿者:山田 道行  02_「江戸時代の日本は、閉塞的で遅れていた」という言説は、妥当か?

            京華高等学校の山田です。
             濵野先生、三谷先生、興味深い問題提起、議論をありがとうございます。濵野先生の教材を読み、三谷先生のご指摘を受けていろいろと考えさせられました。三谷先生のご指摘にある通り、①江戸時代の日本は閉鎖的で遅れていたとする「言説」を前提にすることは妥当なのか、②そもそもある社会が「進んでいるか・遅れているか」と議論することは妥当なのか、の2点が重要かと思いました。
             ①について、濵野先生のコメントにある通り、私の実感としても「江戸時代は遅れていた」と素朴概念をもっている生徒が多いように思います。ただし、中学の教科書にそう書かれていたわけでもないし、それまでの歴史教育で「遅れている」と教わったわけでもないと思うのです。単純な理由ですが、小学校や中学校で明治維新を学習し、「近代化」について素朴に学んできた高校生たちは、あまり疑問をもたず(批判的な考察を経ず)「近代化=優れている=それ以前の社会=劣っている=遅れている」という図式を抱くのではないでしょうか(そもそも我々の社会が「近代化」を前提とする言説に立っているとも言えます)。だからこそ、敢えてそのような「言説がある」という条件設定を授業の中に持ち込み、その考えが妥当かどうかを「資料をもとに考える」ことは、歴史総合の「近代化と私たち」において重要な課題かと思いました。「近代化」とは何か、そこに含まれている「私」や「私たち=近代化された私たち」を批判的、相対的に捉えなおすことが歴史総合の重要な役割だと思うからです。この議論を授業でより生かすために、事前に「江戸時代のイメージ」のようなものをアンケートで回答してもらっておくことのもいいかなと思いました。
             ②についても同様ですが、三谷先生の最初のご指摘にある通り、「進んでいる・遅れている」を総体的に論じることはできないかと思います。その点で、濵野先生の「視点の置き方」「他国との比較、相対化」「提示される史資料による違い」など、授業で挑戦すべき課題が多くあることが理解されました。この点は、歴史教師は特に考えていくべき課題かと思っています。と言うのも、三谷先生の最初のご指摘に「歴史総合の抽象レヴェルは、我々研究者が史料に即して書く論文をはるかに超えたものがある」とある通り、「授業」として成立させるために時に強引な「抽象化」をしてしまうことが、歴史学からは批判の対象になることや、事実に立脚しない議論となってしまう可能性もあるからです。例えば、私などは「産業革命によって世界は豊かになったのだろうか」という問いを立てたくなるのですが、そこには「産業革命で社会が便利になる=豊かになる」という前提が(生徒の中にあるものと仮定して)、批判的、相対的に考察しましょう、と短絡的に考えてしまったりします。しかしはたして、この問題設定が妥当なのか。「産業革命」と一言で説明できるものではないですし、「社会」も世界全体を視野に入れると、個別的には考察できても、結論を述べることはできなくなります。そもそも「豊かさ」を論じる(価値判断に介入する)ことができるのだろうか、ということになるわけです。
             うまく表現できないのですが、このような「歴史総合」について考え、議論が深まっていくことは、今までのAやB科目にはなかったことかと思います。今後も考えていければと思っております。

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            2023/08/17 at 2:38 pm
          • 投稿者:濵野 優貴  02_「江戸時代の日本は、閉塞的で遅れていた」という言説は、妥当か?

            コメントありがとうございます。

            批判的、相対的に捉えなおすことが歴史総合の重要な役割だと思うからです。この議論を授業でより生かすために、事前に「江戸時代のイメージ」のようなものをアンケートで回答してもらっておくことのもいいかなと思いました

            その点では、スタンダードな知識構成型ジグソー法の授業では、最初に素朴概念を記述させる(授業前の理解で、まずはMQについての自分の考えを書く)展開があります。
            私は授業時間の関係で、省略してしまっていますが、山田様のご助言を踏まえると、学習前のプレ記述が効果を発揮しそうですね。

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            2023/08/18 at 2:23 pm
          • 投稿者:濵野 優貴  02_「江戸時代の日本は、閉塞的で遅れていた」という言説は、妥当か?

            続けてのリプライになりますが、産業革命については、「08_産業革命は、人々をどの程度「豊か」にしたといえるだろうか?」という授業を実践しています。

            これも山田様のおっしゃるように、「そもそも「豊か」とは何なのか?」「「人々」とは誰なのか?」、突き詰めていくと「「産業革命」とは何なのか?」という根本的な疑問が現れます。
            基準によって違う、立場によって違う、というのは第8回の授業にもなると、最初からある程度予想がつくのですが、そのうえで「この基準に立てば○○」「この立場に立てば○○」というレベルまで深めることを目指しています。
            そのうえで、では相対主義でいいのか?という段階まで深めようとしているのが第8回です。
            具体的には、「イギリスの労働者の立場に立てば、産業革命は生活の苦しさを生んでおり、気の毒だ」という論と、「インドの綿織物業従事者の立場に立てば、産業革命は自分たちの生活基盤を壊したきっかけだ」という論を理解したときに、「インドで劣悪な環境で働くこととなった人やその家族に「イギリス国民全員に責任があるわけではない。仕方ない」と言うのは妥当か?」という追加発問をしています。
            「立場によって解釈が異なる」を理解した先に「だから、歴史は色んな見方があるよね、で終わっていいのか?」という次の段階があります。

            年間を通じて少しずつ見方考え方を深めていければと思っています。

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            2023/08/18 at 6:30 pm
  • 投稿者:大房 信幸  日本文化のあけぼの

    中村翼先生
    コメントをいただきありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。ジェンダーの視点については生徒の思考が「~についてはこういう見方もできるよね」といった段階にとどまってしまっている課題を個人的には感じており(視点の問題ではなく私の授業の問題なのですが)、今もしくはこれからの自分を想像させる(考えさせる)上で先生のご指摘はとても重要なものだと感じました。実際の授業ですが今年度は4時間で行いました。

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    2023/08/01 at 3:34 pm
  • 投稿者:中村 翼  小説「こころ」を通して「明治時代」を読み解く

    京都教育大学、中村翼です。
    三谷先生・徳原先生のコメントに続けるのは恐れ多く、また屋上屋の感がぬぐえないのですが、私も結婚観などに関するジェンダー関係で『こころ』を教材に使うことがあり(先生も注目されているように、結婚観、男女間の相互認識、兄弟間の関係など)、長文失礼します。

    まず、『こころ』は多くの高校性に少なくないインパクトを与える小説だけに(私の高校時代の教師は「『こころ』を読むためにこれまでの現代文の授業があった」とまで言っていた)、歴史の教材としてうまく使えば、国語・歴史双方の理解につながるものと思います(先生の狙いもまさにその点と拝察しました)。

    さて、三谷先生がおっしゃるように制度上、大正7(1918)までの「大学」が「帝国大学」を指すことは『こころ』に限らず、漱石(と同時代の作家)の作品を理解する上で、誤解しやすいポイントなのですが、すると、漱石文学がかなり(東京)帝国大学の学生(三四郎・『こころ』の私など)・卒業生(『こころ』の先生、『それから』の代助など)の物語であることに改めて気づかされます(しかも「落ちぶれ」卒業生が多い)。すると、この小説が連載された新聞の読者層とはどのあたりなのか(→はっきり分かれるものではないですが、「近代化」の時代と「大衆化」の時代の距離感?)なども素材になるでしょうか。あわせて何気なく出てくる「中学生」も、現代人がイメージするそれとは社会的地位が異なるので、やはり要注意ですね。

    また、『こころ』の先生の生計(学生時代と作品中の現在)の問題は、迂闊ながら今回の教材ではじめて(教材につかえるのだと)気づかされました。その上で、叔父にだまされて財産を失ったという先生の設定を考えるのも面白いかも知れないと考えました(叔父にだまされてから、人を信じなくなった「先生」は冷徹な資産運営者になったのでしょうか?投資に失敗する人も当然多くおり、過酷な競争とセーフティネットの弱さは明治時代の一つの特徴でも有るので〔作品中の現在の先生について〕あまり「安泰」なイメージを強調すると危ないかもしれません)。また「遊んでいられる」という言葉の語感は、現在の高校性のイメージと、漱石の用法は少し違うかもしれません。

    第3題は、まさに国語・歴史の総合問題ですが、これは難しいです。これを論じた「解説」(文庫巻末など)や論文も少なくないようですが、これらも補助材料にするとより深い学びにつながりそうです。時間はなかなか許さないでしょうが、国語・歴史双方の教員で講評できるとなおよいですね。

    最後に余談ですが、『こころ』を6年前の夏に読みなおしたとき(職が得られたことに安堵して漱石をまとめて読みました・・・)、「先生」と「お嬢さん」と「私」の年齢が気になり、驚いたことがあります。

    国語(現代文・古典・漢文)でしっかり読んだ作品を歴史で取り上げると、定着もよくなり、まさに多面的にみる力の養成に役立つと思います。今後ともご教示下さい。

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    2023/08/02 at 4:35 pm
    • 投稿者:濱田文  小説「こころ」を通して「明治時代」を読み解く

      京都教育大学
      中村翼 先生
       
      貴重なご助言を誠にありがとうございました。中村先生にご指摘いただきましたように、漱石の作品に登場する主要な登場人物の多くは「(東京)帝国大学」の学生や卒業生であり、彼らは卒業後に定職に就かなくとも世間から後ろ指を指されることなどない、前途有望な「知識人」として描かれています。彼らの立場を現代の若者の境遇と同様に捉えてはいけないのだと思います。「こころ」の「私」が「先生」を尊敬し慕ったのは、「先生」が大学を出たごく少数のエリートであり、「私」の故郷(田舎)では出会うことのできない人物であったからだと思います。また、「こころ」の奥さんが、お嬢さんを「先生」と結婚させることに躊躇なく同意したのも、このような背景があってのことだと考えます。三谷先生からもご教示いただきましたが、授業の中で、この点について丁寧に説明すべきだったと感じております。漱石作品には、現代の私たちが違和感なく作中に入り込めるような「魅力」があるため、こうした点には注意が必要だと改めて感じました。
       また、次に中村先生がご指摘くださった「過酷な競争とセーフティネットの弱さは明治時代の一つの特徴でもある」というお言葉からも多くの示唆をいただきました。「こころ」の中で使われている「遊んでいられる」という言葉を現代の文脈にそのまま置き換えてはいけないのですね。生徒の感想にも
       
      「夏目漱石の描く『こころ』には現代の私たちには理解しにくいような点がいくつかあったが、今回の授業を通して、理解しにくい点というのは、先生やKが生きた明治という時代を忠実に表現していたからだとわかった」
       
      とあり、まさに中村先生がご指摘くださった点について、明瞭な形で言語化はできずとも生徒たちが少しく違和感を抱いたことがわかります。貴重なご助言をありがとうございます。
       ところで、ご助言を念頭に読み返してみると、漱石作品には、このような明治時代の「危うさ」がよく描かれていることに思い至りました。例えば、「それから」の代助の父についてですが、
       
      「代助の父は長井得といって、御維新の時、戦争に出た経験のあるくらいな老人であるが、今でも至極達者に生きている。役人を已めてから、実業界に這入って、何か彼かしているうちに、自然に金が貯まって、この十四五年来は大分財産家になった」
       
      とあります。「それから」が新聞に連載された1909年の14,5年前には日清戦争があったことから、日清戦争で財産ができたことを暗に示しています。代助は、このような父の援助のもと高等遊民として暮らしているのですね。反対に、エリートが道を外れると「門」の主人公の宗助のようになってしまいます。明治時代のダイナミズムと危うさについて、もっと勉強しなければならないと思いました。
       
      問3は「先生が妻ではなく、若い友人の「私」に遺書を残したのはなぜか」でした。
      この遺書は明治という時代そのものを生きた「先生」から「私」への手紙という形式をとっています。「先生」は遺書を若い世代の友人である「私」に向けて書くことにより共感や励ましの気持ちを伝えたかったのだと思います。明治という時代を「近代の黎明期」と一括りには言えないように、「先生」の生きた明治と「私」の生きている明治には隔たりがあると考えます。このことは、2人が「近代」に対してどれだけ自覚的であるかにも関わっているように思います。この問題について、文学の文献なども参考に勉強していきたいと思います。最後に、問3に関する生徒の感想を2つご紹介させて頂きます。
       
      〇 先生は自分が生きた過去を、「私」という若者にだけ打ち明けた。明治を生き、明治の精神に殉死した「先生」は“過去(明治)の象徴”であり、「私」は“未来の象徴”として漱石は描いたのではないか。私は父重篤の中、先生からの遺書が届き、東京行きの列車に飛び乗って先生のもとへ向かう。この私の行動は「忠孝の道」に逸れた行動かもしれない。“世間体”というものを気にしていた先生と私の大きな違いであると思った。今までの価値観にとらわれないような新しさや、明治が終わり新しい時代を生きていく「私」から力強さのようなものを感じた。
      〇 先生はお金に困っているわけではないにも関わらず、常に幸せではなかったと思う。全体を通して先生は誰かからの理解をずっと求めていたのではないかと思った。その「誰か」がずっと自分を「先生」と呼び慕ってくれた「私」であり、先生はその心の荷を第3者に預けたことでようやく解放を感じられたのではないだろうか。
       
      「こころ」は生徒だけでなく国語の教員にとっても特別な小説のようですね。先生がご助言くださったように、国語の教員と連携した歴史の授業ができたなら、と考えています。今回、諸先生方からいただいたご教示をもとに授業を改善し、国語の教員にも見てもらおうと思っています。今後もお気づきの点などありましたら、ご教示いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

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      2023/08/04 at 10:49 am